「今日は、愚痴って悪かったな」

自宅マンション前に止まったタクシーを待たせて二人で外に降り立つと、送ってくれた河野が穏やかな表情を見せる。
けれど、私を見るその目は、やっぱり以前のような同僚という感じじゃない。
想いの込められた熱い瞳で見つめられると、この先もそうなのかと心が穏やかじゃなくなる。

今まで一緒にいた河野が変わってしまうような、遠ざかっていくような、なんとも言えない寂しいような不安なような感情が心の中をくすぶってきた。

「指輪、よく似合ってるよ」

嵌めたまま、いまだはずせないでいる私の手を取り、そこに光るダイヤを眺める。
大きくてがっちりとした手が私の指に触れれば、突き返す勇気なんて何処にも見当たらない。
まして、信頼してきた相手なだけに、傷つけるのはとても恐かった。

少しの間そうして私の手を取っていたけれど、気持ちを切り替えたように小さく息を吐き出してから、聡太のことを訊ねられた。

「普段の乾は、優しいか?」

訊かれて、どんな顔をすればいいのかわからない。

私の複雑な表情をどう捉えたのか判らないけれど、河野が寂しそうな顔をする。

そんな顔、似合わないよ。

「……河野」
「ん?」
「あの……、私」

何を言えばいいのか解らないまま声をかけて、口をつぐんだ。
そんな私を、優しく河野が抱きしめてくる。

「少しの間だけ、このままでいてくれ」

耳元で囁く声が切ない。

言われるまま突き放すこともできず、少しの間そうしてからゆっくりと離れていく温もり。
しんみりとした空気が漂うのをかき消すように、じゃあ、またな。と河野が言った。

河野を乗せたタクシーのドアが閉まり、車が角を曲がるのを見送って私はエントランスへ足を向ける。
薬指にはまる指輪にそっと触れると、自分の想いの在り処がぼやけていくみたいで、まるで迷子のような気持ちになっていった。