手の届く距離

「『カナコ』って誰よ」

予測はしていたが、予想通りの怒りを静める方法を探す。

かなっぺから連想できる女性の名前が『カナコ』であり、かなっぺの本名は別にある。

苦しい言い訳も、一応あるのだ。

「あの、もしもですね、由香里が個人情報を探そうとされたりした場合に本名じゃないとばれないって利点が・・・」

「川原君」

必死に取り繕う俺を遮って、名前を呼ばれ、背筋を伸ばす。

しかし、それに反して、かなっぺに思いっきりシャツの胸元を掴まれて前かがみになる。

中途半端な前かがみは腰が辛いものの、泣き言もいえない。

それだけのミスをやらかした自覚はある。

「はい」

かがんだ分、近づいたかなっぺの口元はにこやかに弧を描いているが、その目は怒りをにじませており、下手に誤魔化す言葉を止めて、素直に返事をする。

「私の名前、知ってる?」

とんでもない大穴はココだ。

女の笑顔の裏に隠された怒りは、計り知れない。

不自然な姿勢を解いてもらうことをお願い出来ないまま、記憶をどれだけかき回しても、必要な情報が出てこない。

改めてフルネームを言えと言われると、おぼろげ過ぎる自分の記憶の中から、女の人の名前なんて想いつかなくて、とっさに出た名前がかなっぺなので、『カナ』がついていて、女だから『子』しか思いつかなかった。

かろうじて覚えているのは苗字。

「ま、松岡さんですね」

「一緒に働いてもうすぐ2ヶ月になるんだけど」

とげとげしい言葉を甘んじて受ける。

「すみません。かなっぺとしか呼んだことなかったから、松岡かなっぺって・・・」

覚えていない自分が一番失礼極まりないのだが、だから、名前に関しては触れられたくなかったのだ。

祥子さんの哀れむような目もそこから来るもだろう。

こんなことなら、覚えている苗字で言えばよかった、と今更ながら唯一の正解を見落としたことに気付く。

やっと離された胸元を直しながら、ふくれっつらをするかなっぺの機嫌が著しく低空飛行しているのをどうしたら浮上させられるかわからず、謝罪の言葉を告げる。

「奈々恵。松岡奈々恵。まつお『か』『な』なえ。私だってなんでソコ?って思ってるわよ。無駄にイケメンオタクのトシさん命名ってのも気に食わないのに、カナコって誰よ、ホントに!」

地団駄を踏み出しそうなくらい悔しがるかなっぺの本名を聞いても、あまりにも『かなっぺ』で馴染みすぎていて、奈々恵と言われてもまだピンとこない。

そう言えば、晴香さんは『なっちゃん』と呼んでいたかもしれない。

それよりも興味を引かれたのは、かなっぺの中でトシさんの評価の高い部分。

残念ながら、今はそれを指摘する空気はないが、これはトシさんに教えてあげなければならない。

怒れるかなっぺにできることといえば、ひたすら謝る。

これ以外の方法があれば、全力で教えて欲しい。

「私に全然興味ないのがよーくわかりました!荷物持ちは予定通りしてもらうからね!行くよ」

「はい」

怒りが収まらず、大股で進むかなっぺの後ろを大人しくついていく。

「座椅子とローテーブルは必須だからね。組み立てまでやってよ。手作りでご飯でもご馳走しようと思ったけど、やめ!もったいない。何が川原健太よ。あんたなんてワン太だ」

苛立ちを投げつけて発散するかなっぺは止まらない。

「わ、ワン太って・・・」

「晴香さんが言ってたもの、大型犬!ぴったりだわ」

「人間じゃない・・・」

自分で撒いた種だとは言え、図らずもかなっぺに全く気持ちがないことも伝わったことの八つ当たりとも思われて、自分ひとりでどうしようもなくなったら、トシさんや追い払った友人を助っ人に呼ぶ心積もりで、肩身の狭い買い物のお付き合いになった。
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