午前零時半。深夜ラジオが俺に伝えた。
明日、いや、正確には、もう今日の打ち合わせの資料を書き上げ、クラウドへアップした。少し目が霞む。見た目は若いけど、こういう老化には勝てない。目薬をさし、十八階の窓から夜の街を見下ろす。しばらく眺めていると、マンションの前に白いプリウスが止まった。助手席から女が降りてきて、続いて運転席から男が降りてきた。そして、男が女を抱き寄せた。女は男の胸に顔を埋める。五秒か、十秒か……わからないけど、俺は、霞む目でその光景を眺めていた。霞む目が、疲れたからなのか、目薬のせいなのか、それとも……とにかく、目が霞んでいた。でも、あの、ベージュのトレンチコートは、つい数時間前に、見た気がする。いや、でも、あんなコートはどこにでもある。よくある、ベージュのトレンチコートだ。
男は名残惜しそうに女を離し、女は軽く手を振り、ゲートへ入っていった。


俺達は、美男美女のセレブ夫婦。どこに行っても、妻は美しく、華やかで、社交的。俺の半歩後ろに立ち、腕を絡め、優しい笑顔で相槌を打つ。
会社では企画部長を務め、ステイタスも高い。自立した、大人のオンナ。俺は妻が褒められるたびに、満足そうに笑う。
そう、俺は満足なんだ。お前は、俺のアクセサリーだから。そうやって隣で、俺好みの女で、笑ってればいいんだよ。俺を引き立てろ。そのために、俺は下げたくもない頭下げて、二十四時間働いてるんだ。お前の好きなカルティエやグッチ、なんでも買えよ。お前はそれで満足なんだろう?この家を見ろよ。都心のタワーマンション、ドイツ製のシステムキッチン、イタリア製の家具。車はベンツとBMW。俺はお前の愛を金で買う。お前は俺の金の奴隷なんだ。そう、どんなに俺がお前を愛しても、お前は、金しか愛せないオンナだからな。もういいんだ。俺達は俺達の『アイテム』で愛し合う。そうやって……もう、十五年……十五年。

それでいいと思ってた。
……玄関ドアが開くまでは。

リビングのソファに座る妻は、相変わらずいい女で、フロアランプとテレビの光で、白い肌が、妖艶に暗闇に浮かび上がっている。
「遅かったな」
「うん」
妻はテレビの画面に向かってぼんやりと返事をした。俺は、さっきの男のことを聞こうと思ったけど、もちろん聞けるわけもなく、飲みたくもない水を冷蔵庫へ取りに行った。バカでかい冷蔵庫の中には、缶ビールとインスタントコーヒーしかなくて、水はなかった。
「水、ない」
「そう、買っとく」
妻はもの想いに耽っている。いつもと様子が違う。女っぽいというか……エロい。そうか、あいつに抱かれてきたのか。あいつの体でも、思い出してるのか。
俺達は、もう何年もセックスをしていない。妻に欲情しないわけじゃない。いい女だからな。フツウに、隣にいればやりたくなる。
だけど、妻は俺を避ける。セックスは嫌なんだと。俺は妻への欲求不満を外にぶちまける。手当たり次第にオンナを抱いた時期もあった。でも、抱いても抱いても、俺の欲求不満は解消されないどころか、余計に虚しくなる。あからさまにオンナの匂いをさせていても、こいつは無関心。バカバカしい。他のオンナを囲う金は、妻につぎ込むことにした。そうすれば、お前は笑う。人形のような、血の通わない顔で、お前は笑う。
そう、そんな女なんだよ、こいつは。他のオトコの金の匂いはさせても、オトコの体の匂いはしない。ずっとそうだった。金にしか興味がないと思っていた。金さえ出してれば、こいつを俺だけのものにしておけると思っていたのに、今、目の前にいる妻は、他のオトコに抱きしめられ、少女のように顔を胸に埋め、もの想いに耽っている。
嘘だろ?お前はそんな女じゃないだろう?お前をそんなにしたのはどんな男なんだよ?もう……勝てないだろ?俺はそいつに、絶対勝てない。二十年、ずっと欲しかったものは、あっさり他の男に持って行かれた。
そうか、そうなんだな。もう、もういいよ……

俺はソファに座り、久しぶり妻の名前を呼んだ。
「真純」
妻は、テレビに向いたまま、返事をした。
「何?」
妻の唇から、口紅が消えている。誰かの唇にうつしてきたか?
俺は、絶対に言わないと決めていた言葉を言った。

「離婚しようか」

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