午後七時四十八分。十八分の遅刻。何かあったのかと思ったけど、まあ、普通に、渋滞だったようだ。
ロビーに降りると、妻が待っていた。黒いタイトスカートのスーツに、白いフリルのブラウス。グッチのピンヒールを履いた、極上の女が俺の妻。
一瞬目が合ったけど、すぐに逸らされた。いつもそうだ。目が悪いのか?
「遅かったな」
声をかけると、ちょっとびっくりした顔をする。
「渋滞だって言ったじゃん」

 俺達は無言で会場へ行き、ドアの前で腕を組む。氷のような顔の妻は、とたんに輝くような笑顔を見せる。そして俺も、ハリソンフォード並みの笑顔で、俺達は会場へ入る。
「本当に、佐倉夫妻は素敵だわ」
背中に肉の盛った女が俺達に声をかける。妻とそんなに歳は変わらないだろう。横に立つダンナもその腹。どうにかしろよ。
俺は聞き飽きたお世辞にうんざりしながら、笑顔を振りまく。隣の妻は満足気に笑っている。
そうだろうなあ。お前はこうやって、チヤホヤされて、綺麗だなんだ言われるのが好きなんだからな。そのために、エステやらブランド品やらに金かけてんだろ? ステイタスのために家庭を捨てて、仕事してんだろ? こんな上辺だけのくだらない人間達の集まりには、お前のような見栄と体裁しかない女はとても便利だ。
「主人の協力のおかげで、私も思う存分仕事させてもらえますのよ」
何が協力だよ。家事は家政婦がいて、面倒ごとは松永さん。俺達は夫の役目も妻の役目も何も果たしていない。何をやってるんだろうな、俺達は。
お互い、部屋に閉じこもって、俺達は、何をやってるんだろうな。

 時間と労力の無駄でしかない、くだらない政治家先生のパーティが終わり、俺達は笑顔で挨拶をしながらタクシーに乗った。タクシーに乗ってしまえば、もう俺達は他人。
腕を解き、無理な笑顔をリセットし、窓の外を見る。
「どちらまで?」
運転手が聞いてきた。
「仕事あるから、会社戻るんだけど」
はいはい、またお仕事ですか。部長さん、お忙しいことで。
「運転手さん、駅で降ろして」
「どちらの?」
「一番近いとこで」
一刻も早くこのタクシーから降りたい。というより、この女の隣から解放されたい。
 俺は妻に無言で一万札を渡し、タクシーを降りた。妻は黙って受けとり、俺が降りると、運転手に地図を見せていた。会社じゃねえのか? まぁ、いいけど。
あの女には男のニオイはしない。あの女は、人を愛せない。あの女が愛しているのは自分だけ。自分さえ幸せならそれでいい。人のことなど、どうでもいい。
九時半か……
適当なオンナに電話をしようかと思ったけど、明日の資料ができていないことを思い出した。おとなしく帰ろう。

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