紫苑
桜の花が暖かい風に揺られ、優しい木漏れ日が降り注ぐ。
裕人はぼうっと坂を下った。
清々しい春の日とは反対に、彼の心は暗く曇っていた。

彼が家の前に着くと、大きな門がゆっくりと開いた。玄関扉まで行くと家の使用人が出迎え、重厚な二枚扉を開けた。
裕人は気だるそうに
「―ただいま。」
と小さくつぶやいた。

部屋へ行こうとする彼を、甲高い声が引き留める。
「ちょっと、裕人。」
その声の主は裕人の母、洋子だ。

また、今日も。
そんなことを思いながら裕人は振り返らず答えた。
「なんですか。母さん。」

彼の返事を待たずに、その甲高い声は続いていた。
「あなた、決心はついた?
大学へ行く行かないはどちらでもいいのよ。まぁ、私としてはそのまま会社へ入社してお父さんの下で働いて勉強するのも...」

遮るように裕人は言った。
「何回も行ってるじゃないですか。
僕は父さんの後は継がない。継げない。...継ぎたくないんだ!」
彼が声を荒らげて反論したことに、酷く驚いた洋子は何も言い返せず目を見開いたまま動かなかった。

そこへ裕人の声を聞いた使用人が、急いだ様子で駆けつけた。
「裕人さん、どうなさいましたか?」
状況をみて直ぐに察すると、洋子の元へ駆け寄った。
「奥様どうなさられたのです?大丈夫ですか?あちらでお休みになってください。」

洋子は何も言わず、掌を上げ、結構。という動きをすると、腕を組み、そのまま立ち去った。

使用人は、洋子がその場を立ち去るのを心配そうに見届けると、敏感になっている裕人の心を刺激しないよう、柔らかい口調で言った。
「どうかあまり奥様をお攻めにならないであげてください。最近奥様は夜もまともにお眠りになられていないようで、とてもお悩みになられていらっしゃいます。きっといつか奥様に裕人さんのお考えをご理解頂ける時が来るはずです。」

「分かってます。分かってるけど...。ああ毎日同じことを言われると、つい、かっとなってしまうんだ。母さんは、僕の話を全く聞こうともしない。」
そう言って裕人は鉛のような足で階段を登った。

裕人の部屋の扉が開いているのを見ると、彼は直ぐに誰の仕業か理解できた。
「また、お前かよ。いい加減人の部屋に勝手に入んなよな。お前にはお前の部屋あんだろ。純平。」
呆れた様子でそう言いながら裕人は部屋へ入った。

「まあまあ、いいじゃん。裕人。それより、お前大丈夫かよ。あんなに怒鳴って。」
彼は、裕人の家で働く、楠家の使用人の息子である。
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