壁の中の手紙
壁の中の手紙
 毎晩現れる『それ』が母であるということを認識したのはつい最近のことだ。もっとも母は三年前に死んだのだから、それは『母だったもの』でしかないのだが。
 ぼんやりとした霞の塊のような人影、それが家中の壁を叩いてまわる。ゴツゴツ、コツコツと、高く低く音をたてて、ひどく丹念に。
 あれは、探しているのだ。自分が生前に壁の中に隠したとある手紙を。
 
 その手紙の存在を知ったのは、十数年ぶりに壁紙の張替えをしていた、そのときのことだった
「あなた、こんなものがでてきたのだけれど」
はがした古い壁紙の隙間から大きな封筒を引っ張り出したのは妻の芙美子で、彼女の表情は困惑に満ちていた。
「ねえ、あけてもいいのかしら?」
 そこはちょうど母が生前に使っていた部屋なのだから、もしもここに何かが隠されているのだとしたら母が隠したものに違いない。つまりこれは母の所有物であり、その所有者はすでに喪われた。
  しかし私は息子なのだから、これは母の遺品である。もちろん開封する正当な権利があるはずだ
 私はためらうことなく大きな封筒を開けた。何の変哲もない普通の事務用の茶色い封筒は長年壁紙越しに吸い上げた湿気とカビのにおいをくゆらせていたが、他にはどこかいたんだ様子もない。
 封を手で引き裂けば紙のやぶれる心地よい音が響いた。
 そこからでてきたのは、さらに古びた封筒……味気ない茶色の事務用などではなく、薄緑色の上質紙で作られていて、切手を貼る部分の上と宛名を書く部分の下に美しいつた模様が印刷されている。
 明らかに私信用だ。
 宛名は母の名前——ただし旧姓であった。差出人はと裏に返すが、そこには聞いたこともない男の名前が書かれている。
「読まないで、燃やしてあげましょう。そうしたらきっとお義母さんのところに届くから」 妻はそう言ったが、私にはこの封筒の存在を許すことがどうしてもできなかった。
これは、母の裏切りだ。
 別に母が不倫をしていたとか、そういうことじゃない。この封筒の中の文面にもさほど興味はない。
 ただ、浮ついた娘時代にもらったであろう恋文を死ぬまで隠し持っておくほどにその男が好きだったのかと、それが許せなかった。
 父と結婚して私という子をもうけ、それから続いた何十年は母にとって仮初でしかなかったのだろうか。
< 1 / 5 >

この作品をシェア

pagetop