愛すれど…愛ゆえに…
2、心とは裏腹に

伊吹「あぁ……これから仕事だって言うのに。
  もっとセーブすべきだったわぁ」


額を押さえる今朝の私は、昨日のヤケ酒のせいで完全二日酔い。
気だるい全身を無理矢理動かして自転車をこぐ。
幼稚園へ出勤する前、いつも通りに近所のコンビニに立ち寄る。
ガンガンする頭を静めるため、
『飲めばはきけ・二日酔いのむかつきに効く』とキャッチフレーズのついた、
45ml10kcalの栄養ドリンクをしぶしぶ飲みほした。



伊吹「うっ。苦っ!
  まずい……もう一本って。ならないわね(苦笑)
  本当にこれ1本で二日酔い治るのかい?」


そこからまた自転車をこぎ、朝日が柔らかく照らす土手沿いの道を走る。
爽やかな風は熱る頬に当たると心地良く、
萎えた気持ちまでほぐしてくれそう。
ちょっとだけ楽になった私は数分後、
職場につくと玄関わきに自転車を止めた。
お決まりの朝礼が始まり、元気でやんちゃな園児たちをお迎えして、
今日も、伊吹先生の始まりだ。


私の受け持つクラス30名の園児を前に、オルガンを弾きながら歌う。
クレヨンを持ってお絵かきしたり、粘土こねこねを手伝いしたりする。
二日酔いを作り笑いで隠し、
子供たちやその親に陽気で優しい先生を演じるんだ。
そして仲間である先生たちとも何のトラブルもなく、
無事に平和な1日を終えた。
帰り支度をして自転車のキーを差し込んだところで、
主任先生である真知子先生から声をかけられた。
彼女はこの園ではいちばん仲のいい先生なのだ。


真知子「伊吹先生。ちょっといい?」
伊吹 「ええ、いいわよ。何かあった?」
真知子「突然なんだけど、
   遠藤先生がうちにくることになったらしくて、
   来週月曜日から園にくるわよ」
伊吹 「えっ……どうして。
   今度来るのは新卒の先生だって聞いたわよ」
真知子「そうなんだけど、
   八重子先生が産休に入るからその代理に園長が呼んだの。
   きっと園長が近藤先生に泣き入れて頼み込んだのよ」
伊吹 「えーっ」
真知子「伊吹先生には早めに伝えたほうがいいと思ってね。
   心の準備しといたほうがいいわよ。
   じゃあ、また明日ね。お疲れ様!」
伊吹 「え、ええ。
   教えてくれてありがとう。お疲れ様。
   はぁ。なんでまた洋佑がここに来るのよ……」


やっと二日酔いのむかむかと頭痛が治まったと思ったのに、
今度は別のムカムカと頭痛が始まる。
遠藤洋佑(えんどうようすけ)なる人物は、
3年半前に別れた3つ年上の元カレ。
男性の幼稚園教諭なんて珍しく、
しかもこの園では同期だった洋佑に親しみを感じていた。
そしてある日、
彼に告白されたことで二人の付き合いは始まったのだけど、
私と別れたのを機に彼はいきなり園を辞めた。
別れの原因は私の心変わり。
ある人との出会いがきっかけで、
私たちは喧嘩が絶えなくなり、1年3か月の付き合いを終えた。
だから彼が園に来るのはとても気まずいわけで、
と言っても、私がすべて悪いんだけど。


伊吹「なんなのよ……洋佑ったら。
  いくら園長から頼まれたからって、断ればいいじゃない。
  あぁ……仕事がやりにくくなるな」



私はどんよりした気持ちのまま、
自転車を走らせて帰宅ルートである土手の小道に出た。
暫く走ると今日も居た。
私の心変わりの原因が……


彼はカメラを首にかけ、時々飛んでくる鳥を撮影しながら、
土手のいつも決まった場所にイーゼルを立てて油絵を描いていた。
天気のいい日の夕方はいつもここに居る。
彼は私の心を一瞬でとらえた人。
そして、今でも片思いの人。
川辺冬季也(かわべときや)35歳。
職業は大学教授。
私は自転車から降りて押しながら、
彼の居る場所にゆっくり差し掛かる。
そして動揺を隠しながら彼に近寄って、
いつもより少し高い声で挨拶をした。
冬季也さんは私の声に振り返り、
いつもと変わらずにっこり微笑む。



(東京、荒川河川敷)


伊吹 「こんにちは」
冬季也「やぁ。今帰り?」
伊吹 「はい。
   あの、今日はいいの、撮れました?」
冬季也「今日はね、
   カイツブリとアマサギが綺麗に撮影できたんだ。
   特にあいつらは夏に近づいてくると、
   頭や胸がオレンジ色に変わってくるからね。
   これからもっといいのが撮れそうで楽しみだよ」
伊吹 「そうなんですね。
   お写真できたら、また見せてくださいね」
冬季也「うん。
   今度欲しいのがあれば、引き延ばして伊吹ちゃんにあげるよ」
伊吹 「はい!楽しみに、してます……」
冬季也「……ん?
   僕の気のせいかな?
   なんだか元気がないね」
伊吹 「えっ。いいえ、冬季也さんのせいじゃないですよ。
   実は……ちょっといろいろあって考え事をしてて」
冬季也「考え事?何か悩んでるの?
   あっ、もしかして彼氏のこと」
伊吹 「彼氏なんていませんよ!
   し、仕事でちょっと……」
冬季也「そっか。
   僕も教え子のことでは頭を悩ませることがあるよ。
   伊吹ちゃんは教育者だし、幼稚園児相手だしね。
   なかなか小さい子だと大変だろうね」
伊吹 「はい……
   (あぁ。違うっつーの!
   私が悩んでるのはあなたのせいでもあるのよぉ。
   えーい!この際思い切って聞いちゃうか)
   あの。冬季也さんは彼女とか居ないんですか?」
冬季也「ん?彼女?
   僕の今の恋人はカメラとこのキャンバスだね。
   仕事を終えてここで野鳥を撮って、
   絵を描いてる時がいちばんほっとするから」
伊吹 「えっ。でも……
   冬季也さんは背も高くて、ルックスもこんなに素敵で。
   知性あって、いろんなことにも博識があるのに、
   彼女がいないなんて信じられないです。
   学生さんとか職場の女性から、
   お付き合いを申し込まれたりってないんですか?
   例えば、その……
   『ずっと冬季也さんのこと好きでした』って告られたり」
冬季也「えっ。あははははっ(笑)
   一度もないなぁ。
   そういうのがあれば嬉しいんけどね。
   伊吹ちゃんがそういう風に言ってくれたら幸せだなぁ」
伊吹 「えっ。
   (ほらぁ……このパターン。
   これで私はハートを打ち抜かれたのよぁ)
   あはっあはははっ(苦笑)そうですねー。
   それなら本当に告ちゃおうかな」
冬季也「うん(微笑)
   こんなおじさんで良かったらいつでも待ってるよ」
伊吹 「またぁ。
   冬季也さんは、おじさんなんて年じゃないでしょ?
   それに、冗談がお上手なんだから。
   そんなこと言ったら本気にしちゃいますよ。
   (しかし、冬季也さんのその言葉。
   どこまで信じたらいいのやら)」



私ったら何やってるのか、何故か心とは裏腹な自分がいる。
ただ単に調子がいいのか鈍感なのか、
それとも私の言葉に合わせた社交辞令なのか、
まさか本気の本気なのか。
彼の口から発せられた一語一句に神経を集中させすぎて、
またも何気ない一言に落ち込む。

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