恋のはじまりはスイートルームで
恋のはじまりはスイートルームで

「御幸課長、お疲れさまでした」
「まったく、本当にな」

いつもなら「おう、お疲れ」って返してくれる課長の口から、悪態をつくような言葉がこぼれる。地が出たというより、本当に心底疲れきっている所為で普段は強い自制心で封印されている本音が思わず漏れてしまったというところなんだろう。

うちは家電や車や携帯電話、他にも医療機器やOA機器にも使われている半導体や電子部品を販売・技術サポートをする会社だ。やっと収束を迎え通常業務に戻りつつあるけれど、大口の取引先である中国の自動車メーカーで大きな納品トラブルがあって、ここ三ヶ月はずっと対応に追われていた。

語学に堪能な御幸課長はクレームの電話が入ったその日のうち、着替えの準備すらろくにさせてもらえないまま真っ先に上海に送り込まれた。その課長自身もまさかこんな長い期間の出張になるとは思っていなかったらしく、「もう年内の帰国は叶わないと思っていた」と今朝の朝礼で苦笑交じりに挨拶していた。

「そろそろ飯でも食いに行くかな」

早口の中国語と英語の入り混じった会話を終えてようやく電話を置くと、課長はパソコンの電源を落としながらぼやくように言う。もう残っているのは私たち2人だけになっていた。

「お帰りですか?」
「ああ、お前ももう切り上げろ」
「いえ、私のことはどうぞお構いなく」

開いたままのメーラーとにらめっこしていると、自身の抱える案件で手一杯になっていると思っていた課長が「技術部の方からまだ試験結果が上がってこないんだから、及川電機には納期前にデータを急かされても提出出来ないってはっきり言ってやれ」と言ってくる。

対応に困ってることをなぜすっかり見抜かれているんだと動揺しつつ、客先の担当者だけじゃなくその上司からも電話が掛かってきて泣きつかれてしまったので簡単には突っぱねられないのだと事情を説明すると、すぐに的確なアドバイスが返ってきた。

「だったら代わりに旧盤と先月の取った試作盤の連番全部の結果を参考データとして送っておけ」
「あ……なるほど!」
「正規盤の方は技術部にデータ取りを前倒し出来ないか相談して俺から向こうの課長に直接連絡入れるから、先方に今日はこれ以上の対応は無理って言えばいい」

昨日まで上海にいて疲労を癒す間もなく復帰したのに、業務と並行して部下にも目を配っていてくれたらしい。少しでも課長の負担にならないように奮闘していたつもりだったのに、私、全然ダメだ。

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