「お世話になりました」


ナースステーションの前で深々と頭を下げると、美波はすぐにエレベーターホールへと向かう。

俯いたまま、まるで逃げるかのように足早に病院をあとにした。久しぶりの屋外は、5月に入ったこともあってゴールデンウィークを楽しむ人々の活気に溢れていた。


「いやぁ〜入院してたってのにちっとも休まらない1週間だったねぇ〜」


「まぁ……でも、私が悪いですからね……」


斜め後ろからかけられた呑気な声に、美波はバツが悪そうにそう答える。


ーーー 病院で美波が目を覚ましたあと、程なくして医者がやってきて診察を受けた。

診察で問題がないと分かると、今度は警察の取り調べ、さらには弁護士との面談など、休む暇もなく行われた。

美波が飛び降りる際、それに気付いた真糸が駆け寄って受け止めようとするところは、どうやら目撃者がいたらしい。

人通りの少ない場所でのことであり、目撃者がいた事は美波にとって不幸中の幸いだった。

たまたま下にいた真糸に激突していたとなれば、刑事事件として起訴されるのは免れなかっただろう。

そして、幸か不幸か真糸には肉親がおらず、民事訴訟となることもないそうだ。

入院生活の間、真糸とはお互いの自己紹介などを済ませていた。

藤原真糸は33歳。美波の職場である会社にほど近い私立大学で、生物学の研究を行っている准教授だ。

普段は研究漬けの毎日であり、件の日は久々に一人暮らしのアパートへ帰ろうとしたところ、飛び降りようとする美波を見つけて慌てて受け止めようとしたらしい。

気付いたら、病院のベッドで眠る美波の側に佇んでおり、自分の姿が誰にも見えないことを悟ったようだ。


「ところでさ、今どこに向かってるの? 病み上がりなんだから家で寝てた方が良いんじゃぁない?」


駅のコインロッカーに荷物を放り込んだ美波に、真糸はずっと首を捻っていた。

呑気な様子で隣に並ぶ真糸は、初夏を思わせる明るい日差しに身体を透けさせていた。

癖のあるアッシュの髪は、きっと生前も美しかったに違いない、と美波は思った。


「真糸さんに、成仏してもらいたいんです」


先程の彼の疑問に、美波はしっかりとした声でそう答える。


「真糸さんを巻き込んでしまったのは私ですし……」


今にして思えば、何故自分は命を絶とうなどと思ったのだろう。美波は自分自身の突発的な行動に首を捻る。


(真糸さん……とても優しそうな人だし、ずっと責めないでいてくれるけど……本当はきっと怒ってるよね……)


美波はちらりと、隣にいる真糸を盗み見る。

クォーターというだけあって、背も高く華のある容姿だ。その上、研究者らしい丸眼鏡と白衣姿が理知的。

それなのに気取った様子はなく、今も美波の隣でご機嫌に鼻歌など歌っている。

自身の境遇を憂う様子が全くないが、腹の中で何を思っているのかは計り知れない。

ふと、美波の視線に気がついた真糸が、目を合わせてニコッと微笑む。


「どうかしたのかい? とっても難しい顔をしているねぇ」


冷気を帯びた手のひらが、美波の頬に添えられる。やはりただひんやりとするだけで、触れられている感触はない。

真糸は残念そうに、整った眉を寄せてため息を吐いた。


「幽霊って難儀だよねぇ。こんな可愛い女の子が困ってるのに、触れることも出来ないなんて。ねえ?」


「そう言われても……」


(女の子の扱い、慣れてそうだな……これだけ格好良くて大人の人なら、そうだよね……)


場違いである自覚はあったが、美波は彼の顔を直視出来ずに視線を逸らしながら、そんなことを考えていた。

やがて目的の場所が見えてきて、少しだけほっとする。

古めかしい石階段まで来ると、美波は足を止めた。


「ここは……お寺だよね?」


真糸の問いに、美波は力強く頷く。


「真糸さんが幽霊になってしまったのは私のせいですし、成仏するにはこういう場所が一番かなって思いまして」


美波の自信ありげな声音に、真糸は口の端を緩めた。


「まぁ最初に考えつく定番スポットだよね。でも僕、無神論者なんだけど良いのかなぁ〜」


そのまま階段を上っていく美波にふわふわ漂いながら着いてくる。


「はい! ここはよく当たるおみくじもあるって有名ですし、ご利益あると思うんです」


何故か自信満々な美波に、真糸は今度こそ小さく吹き出した。