生け贄の踊り子は不遇の皇子に舞いを捧ぐ

31、無垢なる娘

 娘は驚いたことだろう。礼を言っていたはずなのに怒鳴られ、逃げられて。
 でも、あれ以上居られなかった。礼を受け取ることなどできなかった。
 謙虚などではない。本当に礼を言われるようなことは何もしていない。
 何故なら、残酷な運命に引きずり込んでしまったのはこの自分なのだから。

 娘のためにしてきたことは──贖罪だ。

「沈没してんなぁ、おい」
 この夜非番だったカスケイオスは、セリウスの部屋にずかずかと入ってきた。手に杯を二つと瓶を持っていて、瓶からぶどう酒を注いだ杯をセリウスに渡す。
 普段酒をたしなまないが、今はひどく飲みたい気分だった。

 杯が空になると、カスケイオスはまたぶどう酒を注ぐ。
 どうしたとか何があったとか訊いてこなかった。今のセリウスにはそれがありがたかった。

 こんな気持ち、誰にも言えない。

 娘から逃げ出した理由はもう一つあった。
 彼女が自分を見る清らかな視線。子供のように無邪気でいて、大人のように思慮深くもある。
 どんな素顔を見せても、その碧の瞳にはセリウスへの憧憬、信頼を宿す。それは純粋で、媚びや計算を含まない。

 あの娘が娼婦だったなんて信じられなかった。体と媚びで男を虜にすることを商売にしていたはずなのに、まるで汚れそのものを知らないようだ。

 娼館から買った娘なのにそんなことあるわけがない。あの態度こそが計算なのだと思おうとしても、どうしても頭から拭えない。

 娘が自分に好意を寄せているのではないかと。

 馬鹿な考えだ。自分のしたことを考えてみるがいい。想いを寄せられるに値するような行いじゃない。
 あの娘はセリウスがしたことに気付いていないから、あんなに無邪気でいられるのだ。

 全てを知ったら、娘はどんな顔をするのだろう?

 そんなことを考えているうちに、セリウスは手に持った杯を壊さんばかりに握りしめていた。

「そういえば興味深い話を仕入れてきたぞ」
 カスケイオスがのんびりとした口調で言った。
 セリウスは我に返り、自らを悩ます懊悩(おうのう)を追いやるために話を聞こうと顔を上げる。

「首都ルクソンナッソスのセレンティア地区という下町でな、デビューする前の娼婦が貴族階級の若い貴族に買い取られていったというんだ。客を取ったことのない娘が買われるなんて珍しいことなんでな、ちょっとした噂になっているらしい」

 セレンティア地区、聞き覚えがある。
 ──セレンティア地区に住むニカレテという人物の所有物だということです。

 娘の言葉を思い出し、酒でぼんやりしていた頭がはっきりする。
 貴族階級の者が自分から下町に出向いて奴隷を買い上げるなんてことはしない。セリウスは自分でも、自分のしたことが常識に反していたと自覚している。
 その話はまず間違いなく自分のことだ。

「噂ではその娘は実は貴族の娘で、捜しにきた家の者に買われていったんじゃないかというんだ。……まあ、荒唐無稽な夢物語だな。だが本当だとしたら、純潔を保ったまま引き取られていったのは幸運だったと」

 それを聞いた瞬間、椅子を鳴らしてセリウスは立ち上がった。

「どうかしたか?」
 カスケイオスが不思議そうに見上げる。

 セリウスは見開いた目をカスケイオスに向けた。
「それは本当なのか?」
「何がだ?」
「その……買い取られた娘が純潔だったというのは」
「ああ。間違いない」
「どうしてそうだと言い切れる!? 娼婦じゃないか! 娼婦になるような娘が、デビュー前はふしだらではなかったなんてどうして言い切れる?」

 カスケイオスはため息をついて、短く刈り上げたこげ茶の頭をかいた。
「あのなぁ。あの娘は奴隷だぞ? 奴隷に仕事の自由があるはずないじゃないか。好きでお前の言うふしだらをするわけじゃない。知識のないお前に説明してやるとだな、純潔っていうのは高く売れるんだ。その女の特別だからな。高い金払ってでも手に入れようとする男どもがいる。娼館で純潔の娘を売り出すことをデビューって言ってるんだ。娼館の側は信用第一だから純潔でない娘のデビューなど行わない。その娘は近々デビューが決まっていたというから、娼館の主人の保証付きで間違いなく純潔だったんだよ」

 セリウスはよろけた。酒のせいではなく、今聞いたばかりの真実の、あまりの衝撃の大きさに。
「お前にはこんな話、刺激が強すぎたか?」

 カスケイオスがふらつくセリウスを支えてやろうとすると、セリウスはその手を強く払いのけて扉に飛びついた。勢いよく開いて、締めもせず走り出す。

 居ても立ってもいられなかった。
 確かめなくては。
 半月より少し丸くなった月は、そろそろ地平線に沈むところだった。
 その最後の光を頼りにセリウスは走りに走った。
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