記憶がどうであれ

26話

 会計をしてくれた店員さんが、
「虹河先生がご自分で売り込みですか?」
と後ろで立つ虹川くんをからかう。
「私、学生時代の友人なので…」
 無理やり買わされた訳ではないことをアピール。
「めぐちゃん、友人はないんじゃない?」
 振り返り虹川くんを睨んでおく。
 わざわざ元カレです。なんて言う必要は無い。
 会計を済ませ本を虹川くんに渡すとドアを出てサインをさらさらと書いてくれた。
 う~んなんて書いているのか解らない。多分漢字では無い。
「これ、担当編集者と一緒に考えたんだ」
 はい、と本を手渡された。
「ありがとう」
「あっ! 宛名書くよ?」
「本当? じゃあお願いします」
 そうお願いしたのだけど虹川くんは私の顔を見るばかりで手を動かさない。
「虹川くん?」
「めぐちゃんの名前って、変わってないの?」
「え!? あぁ、そっか気を遣ってくれたんだね。 私、前と同じだよ」
 虹川くんが『前と同じ』と呟いたのが解った…
 同じではなく、前と同じと言った事で離婚したと気づいたのかもしれない。
 サイン本を受け取り微笑む。
「ありがとう」
 作家さん本人が目の前で書いてくれたサイン本なんて初めて。
「この後時間ある?」
「あるけど…虹川くん忙しいんでしょ?」
「今日は大丈夫。 仕事はコレだけだったから」

 二人で喫茶店に入った。
 カフェとは違う薄暗い店内にオレンジ色の温かな照明のいかにも喫茶店。 心地よい音楽が流れ居心地が良い。
 虹川くんは今までの話をしてくれた。
 大学でのこと、就職したこと、趣味で書いた携帯小説が思いがけず書籍化されたこと。
 虹川くんは小説だけで食べていける程の人気はないから会社員の収入がメインだと笑った。
「でも、立派だよ」
 私は心の底から嬉しかった。
 それと同時にあの時別々の道を選んだのは間違いではなかったのだと確信し人生で正しい選択ができた事が誇らしくなった。
 もしも私が虹川くんにずっと依存していたら虹川くんは好きなことに足を踏み入れることを躊躇ったかもしれない。 私という足枷を背負わせなかったことが本当に良かった……
 ずっと依存したいとはあの頃だって思ってはいなかったけれど。
「めぐちゃん、こっちに就職したからいつか会えるといいなと思ってた」
 虹川くんは私の就職先がこの辺だと知っていたっけ。
 虹川くんが進学した大学は県外で遠かった。今では大学名もうろ覚えだけれど、あの当時虹川くんと同じ地域に就職することは考えなかった。
 結局、虹川くんと一生一緒にいるという選択肢は私の中に存在さえしていなかった。
 当たり前の様に、離れると同時に別れたのだからそれはお互いにそうだっただろう。
「私は虹川くんと会うことはないと思ってたな~」
「どうして? 同じ高校だったんだ同窓会とか誰かの結婚式とか会うこともあると思うけど」
 私は首を横に振る。
「私、地元に帰る気無いから」
「地元に帰って住むつもり無いって意味じゃ無く、帰省さえしないって事?」
「そう」
「…ご両親、仲良くしてる?」
 虹川くんと付き合っている頃、家庭がゴタゴタしていた。
 詳しく虹川くんに話しはしなかったけれど、虹川くんは私が家に帰りたがっていない事を知っていた。
「両親の今の状況は知らないの。会ってないから」
「あれから一人で頑張ってるんだ?」
「一人って訳じゃない時期もあったけど…今は一人」
「家を出てからご両親の援助もなく?」
「就職したんだもん、親に援助を貰おうなんて思って無かったよ」
「…俺はそれから四年は親のスネかじってた。恥ずかしいな」
「恥ずかしくなんてないでしょ。 学生だったんだもの。
それに家を出る時には親に色々準備してもらったから全く一人で頑張ったっていうのも可笑しいかもしれない」
 少し沈黙した後、
「俺はめぐちゃんに会いたかったのに、めぐちゃんは俺の事なんてもうとっくに忘れてたんだなって思うと切ないな」
 と、虹川くんは言った。
「虹川くんとのことは青春の一ページだよ。楽しいことも沢山あった…後悔することも、だけどね」
 私は笑った。
 虹川くんと体の関係になったきっかけが、母への嫌がらせだなんて、虹川くんには申し訳なかったと思っていた。
 それでも、虹川くんは私にいつか会いたい思ってくれていた。 それは、虹川くんにとって私という存在が後悔の対象ではないと言う事。それだけは良かったと思う。
 お互いに好き同士だったから…
 初めの彼氏彼女だったから…
 だから、忘れたい存在になっていたらそれはとても悲しかっただろう。
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