殻の中の珈琲嬢

第一話 視線


 いつもの視線を感じて、珈涼(かりょう)は足を止めた。

 振り向くと、涼やかな面立ちをした青年がこちらを見ている。その視線は優しさと鋭さが混じりあっていて、珈涼は親しみと不安を同時に抱く。

 珈涼は会釈をして踵を返すと、恐る恐る足を進めた。
 青年がまだこちらを見ている気配を背中に受けながら、それを振り切るように歩き去った。








 四宮珈涼(しのみや かりょう)は、自分はごく普通の母子家庭の子どもだと思っていた。

 ところが珈涼の母が長年、龍守(たつもり)組という暴力団の組長の愛人をしていたことを知る。その母が行方をくらまして、今日で三か月になる。

 他人だと思っていた父に連れてこられた本宅で、珈涼はうろたえながら生活していた。父の本妻の手前もあったし、腹違いの兄への遠慮もある。家を出入りする強面の男たちも怖い。

 元々珈涼は病弱で、学校も休みがちだった。友達もあまり作らず、外で遊ぶ癖もないから、夏休みに入った今となっては勉強くらいしかやることがない。結局、部屋からほとんど出ないで宿題をして、食事も台所から直接運んで一人で食べていた。

 アルバイトをしたいと相談したのだが、許してはもらえなかった。家の人たちは、龍守組のお嬢さんがアルバイトなどとんでもないと言うのだ。

 そうはいっても自分は邪魔者なのだし、何より自分自身がここを出て行きたい。だがそういう時こそ珈涼の体は動かない。幼い頃からの持病である喘息の発作が出て、その後には熱が高くなる。

 ……今日こそ隠れてアルバイトの面接に行こうと決めていたのに。

 熱の中、少しだけ休もうと目を閉じると、水の中に沈んでいくような眠気に襲われた。

 重苦しくのしかかるような時間だった。それを和らげてくれるようなひんやりとした感触を額に受けて、珈涼は目を開いた。

「あ……」
「今、医者を呼びましたから」

 視界いっぱいに、スーツ姿の男の姿が映った。

 慌てて起き上がると、額に乗っていた濡れハンカチが落ちた。畳で横になったはずだったのに、いつの間にかベッドに寝かされていた。

「だ、大丈夫です。すぐ治ります」
「無理なさらないでください。廊下まで咳が聞こえていましたよ」

 珈涼は恥ずかしくなる。家の人たちの迷惑にならないように部屋に引っ込んでいるつもりなのに、自分は満足に静かにしていることもできないのだ。

「ごめんなさい……」

 消え入りそうな声で告げた珈涼に、男は苦笑して告げた。

「謝ることはありません。子どもは手間がかかった方がかわいいのです」

 そう言った男の姿を、珈涼はそっと見上げた。

 彼は月岡(つきおか)という。龍守組の若頭補佐という役職にある、生粋の極道だ。涼やかな面立ちをしているが、目は抉るように鋭い。いつもダークグレーのスーツをぴしりと着込んでいて、それは派手でも着崩しているわけでもないのにひどく目立つ。

 月岡が立っていると、その名の通り月光をまとっているように輝いて見えた。

 まもなく主治医が呼ばれて来て、珈涼は診察を受ける。一時的な発作だろうと診断されて、薬が足りているのを確認して帰って行く。

 月岡はその間、珈涼の頭を撫でてくれた。その大きな手は母とは違うのに、珈涼は心が安らいだ。

 彼は珈涼より十も年上でありながら、珈涼に敬語を使う。けれど珈涼のことを、子どもともいう。珈涼にはその距離感が心地いい。

「本でも差し入れましょう。欲しいものはありませんか?」

 そしてたぶんほんの気まぐれなのだろうけど、珈涼に優しかった。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 珈涼はなるべく丁寧に返したつもりだったが、月岡の表情が曇る。

 月岡の目が鋭くなる。珈涼は怯えて目を逸らした。

 月岡は優しい。だけど時々、射るように珈涼を見る時がある。まるで猛獣が獲物を狙っている時のような顔をしている。

「あの、どうかされましたか」

 なぜ月岡の気を損ねたのかわからず、珈涼は小声で問いかける。
 月岡は息をつく。それから気持ちを切り替えるように窓の外を見た。

「珈涼さんは、どちらの大学を受験されるのですか」

 珈涼は月岡が目を逸らしてくれたことに安堵する。

「あの、私、就職するつもりなのです」
「就職?」

 月岡は思わずといったように珈涼を見た。その目の鋭さにうろたえて、珈涼はまた目を逸らす。

「そんなお体で?」
「こ、これは、いつもこうじゃないんです。私がこの家にいては邪魔になりますし……」
「ご家族に進学を反対されているのですか?」

 そういうわけでは、と珈涼は口ごもる。
 アルバイトを反対はされたが、進学するなと言われたわけではない。ただ珈涼が、これ以上この家の人たちに世話になりたくないのだ。

 珈涼はいずれ母のように、喫茶店で働きたい。その生き方をするために、母は十分なことを教えてくれた。だから後は珈涼がどこかに就職して、自分の店を持つためにお金を貯めるだけなのだ。

「私からお父上にお話ししましょうか」
「とんでもない。結構です」

 たったそれだけのことなのに、なかなか周りに理解してもらえない。それは月岡も同じだった。

 月岡はまたため息をつく。呆れられたのだろうかと、珈涼はしょんぼりする。
 やがて月岡は席を立った。

「私にできることがあったらいつでも仰ってください」

 長身痩躯の背中が遠ざかっていくのを、珈涼は惜しむように見送った。

 ……恋というには、あまりにも淡い憧れだと思う。

 二十八という若さでこの地域有数の組織のナンバースリーを務める月岡のことを、珈涼はただ憧れていた。汚い仕事もしているとはわかっていても、たくさんの人たちの生活を背負って働く月岡は、珈涼には眩しく見えた。

 ここでの暮らしは、珈涼には馴染めない。でもここに来なかったなら、月岡に気にかけてもらうこともなかっただろう。

 やはりあまり長くここにいてはいけない。そう思いながら、珈涼は月岡を見送った。
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