偶然でも運命でもない
55.約束の行方
自分の歓迎会だというのに二次会を断った響子と、公園の歩道を並んで歩く。
4月とはいえ、夜風はまだ冷たくて、ジャケットの上から巻いたストールは彼女の顔を半分隠してしまう。
急な転勤で転居先の手配の間に合わなかった響子は、転居前の部屋を残したまま、会社の近くにウィークリーマンションを借りていた。
「響子さん、もう、部屋決めたの?」
「ううん。まだ。」
「じゃあ、もし、響子さんが嫌じゃなかったら。俺と一緒に暮らさない?」
「私たちまだ、お互いの連絡先すら知らないのに?」
「そういえば、そうだね。」
「通勤30分圏内、間取りは2LDK以上、キッチンのコンロは電気じゃなくて都市ガス、お風呂は追い焚き可。」
「うん。」
「そんな物件が来週中に見つかるなら、一緒に暮らしてもいいかな。」
まるで、呪文のように唱えた響子は「無理でしょ?」と、大河を振り返った。
ぐるぐると巻かれたストールで半分隠された表情。声は明るいのに、大河を見つめる目は笑っていない。
「マジ?マジで、マ?」
「部屋は別よ。家具と家電は私の持ち込みが優先。」
「響子さん、それ、本気で言ってる?」
「うん。本気。」
その物件に、大河は心当たりがあった。
「うちに来て。」
「何言ってるの?」
「今、響子さん、本気って言いましたよね。」
「言ったけど。……まさか。」
「うち。俺の今のアパート。バス通り沿い、通勤は徒歩でも15分、間取り2LDK、コンロは都市ガスのカウンターキッチン、浴室乾燥機付きで追い焚きも可!おまけにコンビニ徒歩1分。近くにスーパーとパン屋、喫茶店もある。」
「まって。今、実家じゃないよね!?なんでそんな広いところに住んでるの!?」
「ルームシェアしてたんだけど。そいつ、年末に彼女作って出てっちゃって。」
苦笑する大河に、響子は笑いだした。
「なにそれ、ウケる。」
「だから、俺、一人暮らしだよ。……響子さん、うちに来なよ。」
「大河くんさ、私、もう32よ?」
「知ってる。俺、19だよ。」
「知ってる。……ねえ、大河くん。この歳の差は、埋まらないんだよ。」
「埋める必要ないでしょ。……俺、響子さんのそばにいたいんだ。ずっと。追い越すことも追い付くことも出来ないけど。そんなの関係ないだろ?」
前にも、似たような話をした気がする。
あの時は、こんな風に想いを伝えるなんて、出来なかったけれど。
どちらともなく立ち止まって、空を見上げる。
「響子さん。世の中いろんな関係があるって、響子さんが俺に言ったんだよ。だったら、歳の離れた恋人がいてもおかしくないでしょ。」
「そういうもん?」
「そういうもん。」
溜め息をひとつこぼして、響子は口を開いた。
「そうだね。当たり前だと思ってたのに。自分のことだと、わからなくなることってあるんだね。」
「あるねー。あるある。……でも、さ、俺。今日、わかったことがあるんだ。きっと、これは俺にしか、わからないこと。」
「うん、何?」
月のない空は暗く、かわりにたくさんの星が瞬いている。
響子も、大河も、顔を上げて星を眺める。
離れてからずっと、一人で考えていたこと。
伝えないと彼女は、きっとまた俺から距離を置こうとしてしまうから。
……ちゃんと言わなきゃ。
「俺、やっぱり、響子さんのことが好き。」
「うん。私も。……自分、大好き。」
「そっち!?」
思わず振り返って、響子の顔をみる。
ゆるんだストールから、細い首がのぞいている。
「大河くんのことも、大好きだよ。同じくらい、それ以上かも。」
彼女は珍しく真剣な顔をして、まっすぐにこちらを見返していた。遠い街の灯を反射してキラリと光る、嘘のない瞳。意志の強そうな赤い唇。
「え。」
思わず漏れた声は、我ながら間抜けだな、と思う。
「本当に。好きだよ。」
それでも、彼女は目を逸らさずに、好きだと繰り返す。
ずっと、好きだったのだ。
きっと、互いに不安だったのだ。
だから彼女は、あの日、自分を遠ざけたのだ……そう気付いて、その残酷な約束に胸が締め付けられる。
「俺と、付き合ってくれますか?……約束だからじゃなくて、俺はあなたの特別になりたい。」
「うん。ずっと、特別だったよ。」
「……俺、あの時、約束してよかった。自分でも、無理があるって思ってたけど。」
「本当に。むちゃくちゃだよ。」
大河の左手を響子は右手でそっと掴んで笑った。
大河はその指を絡めるように握りなおす。
「……一緒に住むなら、家賃も光熱費もワリカンね。」
「うん。響子さんがそうしたいなら。俺も、助かるし。」
「素直で、よろしい。」
響子は笑いながら、大河に背を向けた。
時折、遠くで車が通る音がするだけの公園に、響子の笑い声が響いて夜空に吸い込まれる。
「帰ろっか。」
「うん。」
あとは、ただ無言で。
部屋の前まで、ずっと手を繋いで歩いていた。
それぞれの歩幅で、でも、同じスピードで。
いつかの夜と同じように。
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