「水音(みお)帰るぞ」

かけられた声と同時にいきなり私の肩がぐいっと引かれ、驚いて振り向くと、見覚えのある男の顔がすぐ後ろにあった。



いきなりのことに驚いたけれど、それよりも怒りの方が大きい。

じっと、…だいたい10秒ほどだろうか、男の顔をしっかりと見つめた後で声を出した。

「どなたですか?・・・人違いでは」

思ったよりも低い声が出た。自分でもびっくりだ。
私の冷たい声に肩に置かれた男の手が一瞬強張ったような気がするが、どうやら気のせいかもしれない。そんなこと何も気にならないようで男の口角がついと上がった。

「水音。婚約者がいるのにお見合いとは感心しないな。お相手にも失礼だろう?」

男は笑顔で私を諭すような言葉をかけてくるけれど、眼は笑っていない。

・・・婚約者?
どこに私の婚約者が。一体いつ私が婚約したと?

男の彫刻みたいに整った綺麗な顔をぎろりと睨み、ぷいっと顔をそむけて自分の肩に乗せられた男の不躾な手を払った。

「大江さん行きましょう。お話する時間が無くなってしまいますわ」

隣に立つスーツ姿の細身の男性の袖にそっと触れた。

私たちはお見合いの定番、”二人は庭でも見ながら話をしておいで”とホテル自慢の中庭に行くように両家の親たちから送り出されたところだったのだ。

「え・・・、でもいいんですか?お知り合いなのでは?」
大江さんは驚いた表情で私と男を見ている。

「いいえ。もしかしたら昔の・・・私の幼い頃の兄の知り合いだったかもしれませんけど、もう何年も前のことでよく覚えてませんし、何の話をされているかわかりませんからどなたか別の方と勘違いされてるようです」

さあ行きましょうと大江さんの腕を押すようにして歩き出そうとすると、「待てって」今度は腕を引っ張られた。

きゃっ
小さな悲鳴と共に後ろに倒れ込み、ぼすんっとがっちりとした男の身体に受け止められた。