捨てられたはずが、赤ちゃんごと極上御曹司の愛妻になりました
さようなら、愛しい人
 七月に入った。

 拓馬さんとはあの日以降、先週半ばの私の休日に会った。
 それから一週間、約束をしていない。

 メッセージのやりとりは何度かしている。彼が言うには、仕事が立て込んでいてしばらく忙しいらしい。

 私はエプロンを身に着けて、持ち場で講座の準備をしながら思い耽る。

 内心では、拓馬さんとの関係が順調で心が浮き立っていたところ、彼は多忙を極める人なのだと実感させられて残念な感情はある。

 まあ、こういう状況もありうるって初めからわかっていたから、がっかりはしても落ち込みはしない。

 それもこれも、彼がきちんと最初に素性を説明してくれたから心の準備ができている。

「宇川先生、こんにちは。今日もよろしくお願いします」

 そのとき、突然声をかけられてはっとした。

左右田(そうだ)さん、こんにちは。いつも早いですね」

 顔を上げると、小柄な女性がつぶらな瞳をこちらに向けていた。

 彼女は今月から通い始めた生徒のひとり。
 私よりもふたつ年上だけど、実年齢より少し幼く見えるし、ふわりとした雰囲気を纏っていて可憐だ。

 左右田さんは着物のような和柄エプロンを首にかけ、目を伏せながら手を後ろに回して紐を縛っている。

 睫毛長いなあ。肌も白いし、紅色のエプロンがよく映える。

「あ、そうだ。宇川先生、こちらよろしければ皆様で」

 うっかり女性相手に見惚れていると、風呂敷に包まれた箱が視界に映り込む。

「えっ。あの、これは……?」

 優美な微笑みで差し出された箱に、私は戸惑った。
 加えて『先生』呼びも慣れないため、おどおどしてしまう。

「うちのお菓子です。母から、私がお世話になっている先生方へ、と」

 正直、普通に『宇川さん』と呼んでくれたほうが気楽なんだけど、ほかのスタッフへも同じように対応しているのを見ると、自分だけ呼び方を変えてほしいとお願いするのは憚られた。

 彼女の家は老舗の和菓子屋だ。
 関東だけでなく、今や全国でも『左右田屋』の名は知れ渡っているだろう。

 元は静岡に店を構えていて、本店は静岡にあったはず。
 しかし、十数年前からは東京に二号店を構え、今日では東京店のほうがメインというイメージがある。

 私は生徒からの差し入れをどう対処するのが正解かわからないまま、咄嗟に手を引っ込めた。

「あ……。その、どうぞお気遣いなく……」
「宇川先生方へ、と職人に今朝作らせたものだと言っていたので、受け取っていただけたらいいのですが……」

 左右田さんは私を上目で見て、儚げに笑った。
 そう言われてしまったら、遠慮するほうが失礼に当たる気がして、おずおずと受け取った。

「そ、そうですか。では、今回だけ。お心遣い、ありがとうございます。くれぐれもお母様へよろしくお伝えください」
「はい」

 彼女は軽く頭を下げて、調理前の準備を始める。

 そのうち、ほかの受講生もやってきて賑わい始めた。
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