とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 この日、文也は午前中の仕事を終えた後、藤宮コーポレーションに向かった。

 通常、システムのメンテナンスはサーバーを介して行うかエンジニアが顧客側の会社に出向いて行うことがほとんどだが、藤宮だけは文也が直接出向いて行っていた。

 計画のため、何も知らない社員を向かわせるわけにはいかない。出来るだけ情報が欲しかった。

 藤宮コーポレーションは津川フロンティアが抱える顧客の中で最も大手の取引先だ。

 大変有難いことに担当は文也を気に入ってくれているようで、他に切られても藤宮が残っていればなんとかなるほど利益も上がっている。だから文也としてもおざなりにするわけにはいかなかった。

 もし仮に津川商事が文也の会社を切り捨てた場合、顧客の大多数は消える。影響がないのはライバル企業の藤宮ぐらいだ。

 だが、藤宮も津川フロンティアを利用して津川商事の情報を手に入れようとしているのだろう。でなければライバル企業の社長の息子の会社に仕事を振ったりはしない。持ちつ持たれつだ。

 受付に行くと、杉野ともう一人受付嬢がいた。確か原田とか言っただろうか。杉野の後輩らしい。今日は彼女と二人で仕事をしているようだ。

「こんにちは、津川さん」

 今日はまともな挨拶だ。恐らく担当者があらかじめ伝えてくれていたのだろう。

「坂口さんと約束しているんですが」

「ええ……伺っております。あの、大丈夫ですか……?」

「はい?」

「顔色が悪いようですけれど……」

 杉野は心配そうに文也の顔色を伺った。

 そんなに目に見えて顔色が悪いとは思わなかった。寝ていないから仕方ないが、あの杉野が心配するぐらいだから余程なのだろう。

 だが、今日ばかりは冗談を言う余裕もない。それより眠かった。

「気のせいですよ。それで、どこに行けばいいですか」

「……会議室Aですね。ご案内します」

 杉野はカウンターから出てついて来た。知った会議室なのにわざわざ案内してくれるとは、今日はいつにも増して丁寧だ。

 前を歩きながらチラチラとこちらの様子を伺う。何か言いたげだが、文也は会議のことで頭がいっぱいでそんなことを考えている暇もなかった。今日もこれからスケジュールがいっぱいだし、やることは山ほどある。

 エレベーターが目的階に着くと、再び杉野が前を歩いた。会議室Aと書かれた部屋の扉を開けられ、中へ通される。

 会議室Aは椅子が四つと机、ホワイトボードが置かれている小さめの会議室だ。担当者と打ち合わせするときはいつもこの部屋を使っている。

「あの……津川さん。本当に大丈夫なんですか」

「平気やって。起きて動いてるやろ」

「どこか気分は悪くないですか。無理しない方がいいんじゃ……」

「ええから、もう戻ってええよ」

 文也は椅子に腰掛け、鞄を広げた。ノートパソコンを取り出して電源を入れるものの、ちょうど窓から差し込む光が眩しくてまた眠くなってくる。

 後方で扉が閉まった音がした。杉野が退出したのだろう。

 珍しく心配してくれたのにロクに言葉を返せなかった。一杯一杯なのかもしれない。

 だが、こんなことで弱音を吐いていられない。父、雅彦ならこんなことできて当然と言うだろう。兄だってきっとそう言う。

 今思うと家を出て自由になったのは一瞬だけだった。けれどそれも結局雅彦の罠だったのだろう。また家の言いなりだ。

 もしかしたら、このまま努力して藤宮をどうにかしても状況は変わらないのではないだろうか。会社を取り戻すこともできず、また家の言いなりにならなければならないのだろうか。

「津川文也」なんて辞めてしまいたい、と思った。滝川文太の方がずっと素晴らしい人生を送れただろう。いちいち家の許可を取る必要もなければ杉野に嫌われることもない。映画だって、もっと楽しめたはずだ。

 不意にノックの音がした。担当者が来たのだろう。立ち上がって振り返る。

 だが、開いた扉から出て来たのは先ほど出て行ったばかりの杉野だった。その手には紙コップが握られている。

「差し出がましいと思いますけど、もしよかったら飲んでください」

「……わざわざ戻って来たんか」

「すみません。お節介だとは思ったんですけど……」

 文也は杉野からお茶を受け取った。温かい。わざわざ淹れて来たのか自販機で買ってきたのかは分からないが、気を遣ってくれたようだ。

 今日の杉野はずいぶん優しい。いつもとは大違いだ。もしかしたら、夢でも見ているのではないだろうか。

「……俺は滝川と違うで」

「知ってますよ。何言ってるんですか」

 どうやら勘違いしているわけではないらしい。分かってはいたが、なんとなく信じられなかった。

「……ありがとうな」

「お仕事、忙しそうですね」

「ああ、まぁな。やらなあかんことが多いから……ただの寝不足やらか気にせんでええで」

「……仕事が落ち着いたら」

「ん?」

「お仕事が落ち着いたら、ご飯にでも行きませんか」

 文也は眠気のせいで「飯かぁ」なんて思いながらも返事をし忘れた。杉野に誘われたのは初めてだ。それこそ何回誘っても釣れなかったのに、なぜ今更誘って来たのだろう。

 あまりにも長い間返事できずにいると、杉野は気まずそうな顔をして俯いた。

「っすみません。やっぱりいいです」

「……待ってや。ほんまに?」

「う、嘘でこんなこと言いませんよ。この間はお世話になったので、たまにはいいかと思っただけです」

 杉野は恥ずかしそうに俯いた。ツンツンしていた鉄仮面は一体いつの間に剥がれたのだろう。見たことがない顔だ。

 頬をつねるなんて真似はしないが、幻覚でも見ている気分だった。《《あの》》杉野が自分を誘ったのだ。いくら誘ってもなびかない。自分を嫌っていると思っていた杉野が。

 杉野との関係回復は計画の第一歩だ。だが、今はそんなことカケラも思い出さなかった。ただ彼女が少しでも心を開いてくれたことが嬉しくて、たまには体調を崩してみるものだと思った。

「前言撤回はなしやで。ええんやな?」

「ご……っご飯に行くだけです!」

「分かってるって」

「仕事が落ち着いてからですよ! それに体調が治ったらです! それまでは行きませんから!」

「ちゃんと仕事するし休むって。絶対飯行こな。約束やで」

「分かりましたから……」

 こんなに困った顔をした杉野は初めてかもしれない。文也はついうっかり「可愛い」なんて思ってしまった。さっきまで眠くてしょうがなかったのにゲンキンだ。

 これは津川文也としてではなく、もっと個人的思いだ。藤宮の受付嬢・杉野美帆ではなく、彼女自身に興味を抱き始めていた。

 
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