とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
第20話 二人の約束
 美帆は一日だけ会社を休んだ。休んでいる間、ずっと文也のことを考えていた。

 どこにも行かず、ドラマも見ず、ベッドの上でただぼうっと過ごした。

文也からの連絡を待っていたのかもしれない。あの話は嘘だと。そんなわけがないと、言い訳して欲しかった。

 だが、文也からの連絡はなかった。電話も、メッセージも。ぶつんと途切れたようになくなった。

 その翌日、気分が乗らないまま出社すると、先に来ていた胡桃坂が心配げな顔で尋ねたきた。

「杉野さん、大丈夫ですか? 無理せずに休んだ方がいいですよ」

「大丈夫。昨日は突然帰ったりしてごめんね。今日はちゃんと仕事するから」

 美帆は本当は怖かった。

 青葉はああ言っていたが、本当に自分のIDが盗まれていたのなら疑われるのは自分だ。もう仕事を任せてもらえないかもしれない。クビにされるかもしれないという不安があった。

 だが、その不安はメールボックスを開くと消えた。

「サーバーの不具合について」というタイトルで、先日の一件のことが知らされていた。正式な社内文書だ。全社員に回っているようだ。

 文章の中には、会社のサーバーが不正なアクセスによってダウンしていたこと、情報が抜き取られた可能性があること、そして社員のIDが《《複数》》盗まれていたことが書かれていた。

 美帆はすぐに自分のことだと分かった。

 だが、それに対して誰を処罰するなどのことは一言も書かれていない。津川フロンティアに対する対応についてもだ。

 その後、セキュリティ強化のため社員全員のIDとパスワードを書き換える指示が書いてある。

 ────一体どういうこと? どうして社長は何も書いていないの?

 全員分の書き換えを行うのは言われのない誹謗中傷を避けるためなのだろう。それとも本当に複数のIDが盗まれていたのだろうか。

 胡桃坂がやけに心配していたのはこれを見たからなのかもしれない。同じ部署内だ。社長から何か聞いているのだろう。

 やがて始業して少しすると、美帆は社長室に呼ばれた。 

「少しは休めた?」

 社長は気遣わしげに椅子を進めた。美帆は大丈夫です、と言って断った。

 先日と違い、社長の表情は穏やかだ。あの一件は片付いたということだろうか。

「一昨日は嫌な聞き方をしてごめんなさい。メールは見た?」

「……はい」

「杉野さんのIDとパスワードは書き換えてあるから大丈夫よ。新しいものは総務に教えてもらってね。一応サーバーは元通りになったからもう平気だと思うわ」

「あの……社長。私は、辞めなくてもいいんでしょうか」

 不安をギュッと押し殺す。理由はどうであれ、この件で会社は被害を受けた。それに対し自分がまったくもって関係ないとは言い切れない。美帆も責任を感じていた。

 受付に戻されるか、それとも別の部署に行くか、降格させられるか、もしくは自主退職を迫られるか。昨日はそのことも考えて落ち込んでいた。

 社長は困ったように笑った。

「津川さんは、とても優しい人なのね」

「え?」

「杉野さんのことをとても大事にしてるみたい」

 突然社長がそんなことを言い始めたものだから、美帆は耳を疑った。文也はつい先日社長に無礼を働いた。そんな評価をもらえるような人間ではない。

 それに、社長は文也が自分に何を言ったか目の前で聞いていたはずだ。

「な……そんなわけありません! あの人は、私のこと────」

 騙したんですと、声には出なかった。言葉にするとまた傷付くような気がして言えなかった。

「わざわざ呼ばれてもないのに会社に来て、あなたに嫌味を言った。変ね。自分と会社が大事なら全部あなたのせいにすればいいのに、不思議じゃない?」

「それは────」

「杉野さんを騙していたことは事実かもしれないけど、私にはこう聞こえたわ。『杉野さんは悪くない。全部自分が悪い』って」

 そんな馬鹿な。文也は間違いなく自分を騙していたはずだ。滝川という人物になりすましてまで、自分に近付いた。ひどい言葉で散々傷付けた。

 彼がそんなことをするはずがない────。

 けれど、心のどこかで社長の言葉に納得している自分がいた。

 あの時は言葉のまま受け取って、表面的なことしか考えられなかったが、文也があそこまで言った理由を考えただろうか。

 自分は文也に会社のことを何か聞かれただろうか。内部の細かいことまで尋ねただろうか。いや、違う。文也は一度もそんなことは聞かなかった。あれは文也の嘘だった。

「ごめんなさい。お節介だと思って聞き流して」

「あの……彼は、どうなるんですか」

「この事態を引き起こした責任は取ってもらうつもりよ。理由はどうあれ、うちの会社もダメージを受けたし、みんな大変な思いをしたから。大事にしたくなかったから通達では簡単に書いたけどね」

「どうして、あんなこと……」

 文也はなぜあんなことをしたのだろう。

 青葉が言っていたようにサーバーにトラブルを起こしたのは文也ではなかったのかもしれない。だが、文也はさも自分がやったかのように言っていた。

 藤宮に恨みでもあったのだろうか。津川商事と藤宮グループはライバル関係にある。恨んでいても不思議ではない。

 だが、文也は父親と折り合いが悪く、家からも離れていると言っていた。それが本当なら、文也が津川のために藤宮に何かするということは考えられにくい。

 理由が分からない。文也は一体何を考えていたのだろう。

「仕事のことは何も気にしなくていいから、杉野さんは今まで通りやってね」

「……お気遣いありがとうございます」

 美帆は深々と頭を下げた。

 まさか何も問われないとは思わなかった。あの時文也が来たおかげなのか。それがなければ自分はどうなっていたのだろう。やはり疑われていただろうか。

「……でも、社長。あの人が私のこと大事にしてるなんて、やっぱり信じられません。今までも、思い当たる節はあったんです。私が気付かなかっただけで、あの人は本当に私のことを……」

「私は二人のことはわからないけど、でもね……津川さん、最後に私にお願いをしたの。杉野さんを辞めさせないでほしいって。だからどうしてもあなたのこと騙すような人には思えなくて」

 それが本当だとしたら、本心からの言葉だとしたら、一体自分は何を信じたらいいのだろうか。

 のっぴきならない事情があったとしても、騙したことは事実だ。

 けれど文也と過ごした時間が全て嘘だとは思えなかった。文也は楽しそうだった。一緒にいて気楽で、面白くて、心が温かくなった。嘘だなんて微塵も疑わないぐらい。

 文也はどうしてあんなことをしたのだろう。もう聞く勇気もない。

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