心の刃 -忠臣蔵異聞-
第7話 藩士離散
                一 
                                 
 赤穂藩江戸屋敷から早駕籠が出され、国許へ早水藤左衛門(はやみ とうざえもん)萱野三平(かやの さんぺい)の二人が使わされる。第一陣では長矩が江戸城・松の廊下で刃傷に及んだことが伝えられた。
 知らせを受けた赤穂藩の筆頭家老/大石(おおいし)内蔵助(くらのすけ)は、続く第二陣の到着を待った。第二陣の大石瀬左衛門(おおいし せざえもん)原惣右衛門(はら そうえもん)を乗せた早駕籠が同日の午後に到着する。第二陣の報告内容は、長矩の切腹と赤穂藩の取り潰しだった。
 内蔵助はこれから起こりうる藩内の混乱を考え、次席家老/大野九郎兵衛(おおのくろべえ)を呼び藩札のことについて相談する。数百人を超す家臣たちが大広間に集めれられ、各々が藩として進むべき道を議論していた。内蔵助はそうした家臣たちを大広間に残し、九郎兵衛を控えの間に呼び出した。
 まず初めに内蔵助が持ち出したのは、元金の六割という有利な条件で藩札交換をするということだった。現在も情報が飛び交う藩内で札座は混乱状態であった。赤穂藩の財政は塩田開発で潤っていたというが、それは六割を超える塩田業者への高い年貢のおかげであり実際は破たんしていたという情報もあった。
 藩士に与える分配金についても内蔵助は九郎兵衛と異なることを打ち出した。九郎兵衛は各自石高にあった配分にするべきと訴える。これは高禄者が多く受け取り、身分の軽い者は当然分配される金は少ないということだっだ。
 一見、九郎兵衛の方針は自己の利益のために打ち出したものと聞こえるが実は違う。石高が高いということはそれに見合った家臣や下僕、そしてその家族など多くの使用人を抱えている。分配金が少なければ彼らの生活が危うくなってしまう。九郎兵衛は、内蔵助に必死になって分配金について石高に応じた分配をすべきだと持論を訴える。
 しかし、九郎兵衛の意見は退けられ、下に厚く上に軽くなどの配分が決定される。高禄の者は日頃からの蓄えなどがあり、個人の財産も持っているので困窮しないというのだ。
 内蔵助は今まで藩内の政務の殆どを九郎兵衛に任せ、その政策に異論を唱えたことなどなかった。それがこの度の事態については違った。
 内蔵助と九郎兵衛とでは、考え方が根本的に違うのだ。藩を追われた後の生活を考え、生きて行こうと考える九郎兵衛に対し、内蔵助は家中が分裂することを回避し結束を強めることに重きを置いているのだ。
― 藩がお取り潰しになったというのに何故、家臣の結束を強めておく必要があるというのだ。―
 九郎兵衛は、内蔵助の意図しようとすることを考える。そして、ある途方もないことを思いつくのだった。
― ま、まさか。―
 内蔵助が吉良義央を討つつもりなのではないかと脳裏に浮び始める。九郎兵衛は内蔵助の真意を悟って体がすくみ上っていく。
― この男にはついていけぬ。―
「大野殿。そろそろ皆が待っていましょう、我等も参りまするか。」
 覚悟を決めている者の言葉には、特有の冷たさを感じるものである。内蔵助の口元が笑っているかのようにも見えた。
 九郎兵衛は控えの間から大広間へ向かっていく間、内蔵助の背中から出てくる殺気に背筋が凍りつく思いを感じていた。

                二

 こうした混乱の中で、赤穂藩では連日連夜の会議が城内で行われた。遅れて江戸詰の片岡、磯貝、そして安兵衛や孫太夫など数名も駆けつけてくる。赤穂藩家臣三百余名、大広間で激論が交わされることになった。
“ 籠城 ” “ 開城 ” “ 殉死 ”など、様々な意見が発せられ、大広間内で激論が交わされていた。
 激論が交わされている間、広島藩浅野本家、阿久里の実家である三次浅野家、長矩の母の実家大垣藩戸田家から開城するように申し出が内蔵助の許へ届いている。
 原惣右衛門が、声高に叫んだ。
「各々方。開城か籠城か、はたまた殉死か。我等の意見はこの三つに絞られたようでござるな。」
 惣右衛門の声に大広間一同の声が一瞬にして静かになる。
 意見が出尽くしたところで、大広間に集まった者が内蔵助に視線を集めた。
「御家老、我等の意見は出尽くしました。御家老は如何お考えか、我等にお聞かせ願いたい。」
 惣右衛門が、険しい表情で内蔵助に迫った。
「御一同、これより内蔵助の存念を申し上げる。」
 内蔵助は、浅野家再興を条件にし城明け渡しを済ませた後、殉死すると家臣たちに告げる。
「城を明け渡して、殉死だと?馬鹿馬鹿しい、殿が討ち果たせなかった吉良を討たずして腹など斬れるか!」
 この採決に納得できない安兵衛や孫太夫は、早々とこの大広間から立ち去ってしまう。
 片岡たち側用人組も、安兵衛たちに続き場を立ち去り江戸へ帰ってしまう。
「殉死など御公儀への反逆と同じじゃ!拙者は納得できぬ。」
 次席家老/大野九郎兵衛らも、殉死反対組等も続いて退出して行く。
 江戸詰藩士たちや採決に承服しなかった者らが次々に退出し、残った藩士たちが殉死の準備を始めると内蔵助は一同の手を止めさせる。
「御一同の御覚悟、しかと見させて頂いた。内蔵助の存念は、殉死にあらず。」
 内蔵助は殉死採決に殉ずる藩士たちの前で弟/大学長広による浅野家再興を叶えた後、吉良義央への仇討を実行すると告げたのである。

                三

 赤穂城は多都馬の危惧していた籠城という事態には陥らず、無事に脇坂(わきさか)淡路守(あわじのかみ)安照(やすてる)に引き渡された。当然、江戸鉄砲洲にある浅野家上屋敷や赤坂の下屋敷も同じである。江戸鉄砲州上屋敷と赤坂南部阪下屋敷の両屋敷は公儀により収公されたのだ。
 長矩の正室/阿久里は、名を瑶泉院(ようぜんいん)と改め実家である三次浅野家へ引き取られていった。当初、剃髪後に寿昌院と号したが、綱吉の母/桂昌院と昌の字が重なるので畏れ多いということで瑶泉院に改めた。
 弟/浅野長広は閉門となり、三月十九日には藤井・安井両家老も屋敷を出て行った。
 赤穂藩士はそれぞれ、一族郎党国中に散り散りになっていく。安兵衛ら急進派は江戸の市井に紛れ、仇敵/吉良義央を狙っていた。
 筆頭家老/大石内蔵助は尾崎村の小瀬戸に居を構え移り住むことになる。小瀬戸は家僕の瀬尾孫左衛門(せおまござえもん)の兄/元屋八十右衛門の別宅だった。
 この仮住まいから千種川を渡り、執務を行っていた遠林寺まで通っている。この遠林寺で内蔵助は住職/祐海(ゆうかい)を江戸に派遣し大学長広を立てお家再興を画策する。真言宗の寺でもある遠林寺はその伝手を利用し、綱吉の母である桂昌院を頼ろうとしていたのだ。
 この小瀬戸には六月二十七日まで、赤穂城開け渡しの残務整理を行うため滞在していた。

                四

 安兵衛はその後、両国に移り” 長江長左衛門 ”と偽名を使い剣術道場を開いていた。
 多都馬は、安兵衛の道場を訪ねていた。
 松の廊下の刃傷事件以来、音信不通になっていた安兵衛のことが気になっていたのだ。
 道場は昼間というのに、門弟たちの掛け声もなく静まり返っていた。
「御免。」
 戸を開けて中に入ると、安兵衛の妻/キチが出てくる。
「多都馬様。」
「安兵衛は・・・。」
「奥に・・・。」
「よろしいですか?」
「どうぞ、お上がり下さい。」
 多都馬は、安兵衛のいる部屋に案内される。
 横になってぼんやりと障子の隙間から空を眺めている安兵衛がいた。
「しがな一日あのように。」
 キチは気が抜けたような安兵衛に胸を痛めていた。
 多都馬は安兵衛の隣に腰掛けた。
「安兵衛。」
「おう・・・多都馬か。」
「水臭いの・・・。連絡くらいよこしたらどうだ。」
 安兵衛は、相変わらず多都馬と目を合わさない。
「・・・よくここがわかったな。」
「忘れたのか。ワシは江戸中に繋ぎを持っておる。」
「長兵衛か。」
「まぁな。」
 横になっている安兵衛の声は張りがなく、隣りにいる多都馬の顔さえも見ようとはしない。
「剣術道場となっておるが、門弟たちがおらんようだな。」
 多都馬の問い掛けに安兵衛は何も反応しない。
「聞いてもよいか。」
「なんだ。」
「何故、偽名など使うておる。」
「・・・お主には、関係ないことよ。」
 多都馬は、張りがない安兵衛の声に胸騒ぎを覚えていた。

                五

 店に帰ると須乃が心配気に多都馬の帰りを待っていた。
「安兵衛様のご様子はいかがでしたか?」
「心、ここにあらず・・・という感じだな。」
 多都馬は座敷に横になり溜息ひとつついて天を仰ぐ。
「それは、そうでございましょう。御取り潰しとなり内匠頭様も御切腹となれば、安兵衛様の胸の内は計りしれませぬ。」
― 優しい女子(おなご)よ・・・。 ―
 多都馬は、須乃の辛そうな顔を見て思った。しかし、須乃の思いは少し外れていた。多都馬は安兵衛の様子から別の事を考えていた。
「悲しみで元気がないとは違う。」
「では、どのようなお気持ちだと?」
「亡き長矩様が打ち果たせなかった吉良様を討つ・・・そういうことであろう。」
「そんな無茶な・・・。」
「それは本人が一番理解しておろう。」
「お辛いでしょうね。」
「差し詰め、城詰めの者たちが仇討を渋ったのであろうな。」
「キチ様は?」
「安兵衛がああいう状態故、困っておった。」
 キチの気持ちを思い、須乃は胸を痛めた 。
「それでは、明日。私も安兵衛様のところへ行って参ります。」
「うむ、頼む。キチ殿の力になってくれ。」
「はい。」
「ワシは、同行せぬ方がよいだろうな。」
 心を閉ざしている安兵衛に誰の言葉も届く筈もなかった。
「女子《おなご》は女子《おなご》同士で・・・。」
「供は三吉を連れて行けばいいだろう。」
「はい。」
 その夜は、まるで安兵衛の心を投影しているかのように暗く重たかった。
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