心の刃 -忠臣蔵異聞-
第8話 思 惑
                  一
   
 反綱吉政治の筆頭であり次代将軍有力候補の甲府宰相/徳川(とくがわ)綱豊(つなとよ)(後の家宣(いえのぶ))は、松の廊下での刃傷事件に心を痛めていた。
 邸内の池の鯉に餌をやってはいるが、心ここにあらずといった体であった。その傍らには、側近であり学者の新井白石(あらいはくせき)が付従っていた。
「池の中の鯉たちも、宰相様の御心を分かっておいでのようですな。」
「ん?」
 綱豊は、白石に言われ池の鯉に目を向ける。
「なんじゃ、餌に集まっておらんの。」
「何かお考えで・・・。」
「うむ。刃傷事件の事を考えておった。」
「松の廊下でのことでござりましょうか?」
「内匠頭の沙汰であるが、即日切腹、お家御取り潰しとはの・・・。」
「宰相様は、片手落ちとの御考えにござりますか?」
「よく吟味した上で、採決を下すべきであったと余は思う。」
「上様におかれましては、桂昌院様の従一位の冠位がもたらされるところを台無しにされた腹いせという、お考えだったのでは・・・。」
「そのような私情を持って沙汰を下すとは愚かな。」
「御意。」
 犠牲になった家臣と庶民たちの事を思うと、綱豊は憤りを隠せなかった。
「ところで・・・。」
 近く木々からムクドリが、頃合い良くけたたましく鳴きながら飛び立った。白石は発しようとした言葉を、ムクドリの泣き声に遮られ一呼吸間を空けた。
「どうした、白石。」
 綱豊は振り返って黙っていた白石を見る。
「宰相様。此度の刃傷事件、うまく利用いたせば次期将軍の座が転がり込んでくるかも知れませぬ。」
「なんと。」
「不謹慎であるとは存じますが・・・。」
「左様じゃ、控えぬか。」
「しかしながら、上様のご政策に民たちも苦しんでおりますれば・・・。」
 綱豊は白石が語らずとも、綱吉が次々に打ち出す政策に予てより不満を抱いていた。
 将軍職を半ば諦めていた綱豊ではあったが、その意思とは反対に白石の話に耳を傾けていた。
「次期将軍の座が転がり込むとは、どういう事なのなだ。」
 白石は綱豊の目を真っ直ぐに見つめた。
「喧嘩両成敗は、古来より武家の習わしでございます。」
「此度は武家の棟梁たる上様が、自ら破られたわけだが・・・。」
「御意。この沙汰に元赤穂藩士たちは当然不服なはず。しかも、この片手落ちの採決に諸大名も黙ってはおりますまい。」
「態度をあからさまに出しているものはおるのか?」
「はい、仙台藩/伊達綱村(だてつなむら)様。」
「綱村は何をしたのだ。」
「田村右京太夫屋敷にて、切腹させた際に、いささか問題がありました。」
 綱豊は身を乗り出して白石に迫る。
「それは、なんじゃ?」
「はい。屋敷の庭先にて執り行われたと聞いております。」
「な、何じゃと!」
「目付の多門伝八郎が抗議したとか、しないとか・・・。」
「武士の作法を知らぬ不届きなものよ。」
「本家にあたる浅野綱長様は、はっきりと田村右京太夫様へ抗議し、親戚筋の伊達綱村様は宰相様と同じこと申し、田村右京太夫様と縁切りを行ったと・・・。」
 白石は綱豊の顔を覗き込む。
「今までの話が次期将軍の座にどのように関係すると申すのじゃ。」
 白石は、周囲を警戒しながら淡々と話し始める。
「大名諸侯の不満を利用し噂をばら撒きまする。内匠頭様は、前々から吉良様へ遺恨があった。その遺恨があったことを調べもせず、即日切腹、領地召し上げとなった。・・・そして赤穂の浪士共が、吉良様より受けた遺恨を主に代わり討つらしい・・・と。」
 綱豊は白石の策略を聞き目を丸くする。
「何を申す。吉良は被害者であるぞ。」
「どちらに非があるかなど、問題ではござりませぬ。」
「何?」
「本来ならば。私情を挟み、(まつりごと)を私した上様こそ赤穂の者たちの仇。」
 綱豊は白石の話に聞き入っている。
「藩を挙げて戦に持ち込むというのか。」
「最悪の場合、そのようなことも考えられるでしょう。」
「それは避けねばならぬぞ。民が巻き添えになる。」
「しかし、実のところ上様がお相手だと知れた途端、仇討ちの気持ちも萎えましょう。」
 白石は言葉を発した後、目を閉じ一呼吸間を開け話し出す。
「うむ、それが現実というものであろうな。」
「それでは、困るのでございます。」
「どういうことじゃ・・・。」
「吉良様を悪、浅野様を善とせねば幕府に怒りの矛先が向けられます。怒りはそのまま上様へ、そして大名諸藩並びに旗本八万騎全てが一斉に幕政から離反する恐れもございます。宰相様が上様より将軍職をお継ぎになられても、それではあまりにも不利なものを背負い込むことになります。」
 まるで戦でもするかのような白石の迫力に綱豊はたじろいだ。
「浅野様の乱心ではなく、あくまでも遺恨。遺恨ある吉良様を悪とすれば・・・大名諸藩、旗本や民衆等を幕政からそらすことが出来ます。それに高家は、高々四千石ほどの旗本でございます。」
「幕府ではなく吉良であれば赤穂の者たちも手が届き、事が運びやすいと申すのか。」
「実際に仇討ちが成功すれば、その時こそ策略の集大成。我等が表に出ることなく天下の情勢は転がり込んで参ります。」
「しかし、そう事が旨く運ぶかの。第一、吉良家の者たちには、何の咎もないではないか。余は気が進まぬ。」
 綱豊が言い終えぬうちに白石は言葉を重ねる。
「宰相様。捻じれたご政道を正すには、犠牲は付き物にございます。これしきのことで怯まれては、悪政に悩まされる民たちを救うことなど出来は致しませぬ。」
 綱豊は、目を閉じ暫く考え込んでいた。綱豊の脳裏に、綱吉の政により苦しむ民の姿が浮かび上がる。
「相分かった。早々に行動に移すのじゃ。このような悪政が蔓延る世を、余が必ず終わらせてみせよう。天下万民もそれ待ち望んでいるはずじゃ。」
 白石は綱豊の命を受け、その噂を各大名から茶坊主にいたるまで、あらゆるところに流すためすかさず行動に移した。

                二

 日が落ちそうな夕暮れ時、梶川(かじかわ)与惣兵衛(よそべえ)は両国にある自身の屋敷にて日々の出来事を日誌に書き止めていた。
 与惣兵衛は筆を止め、眼を閉じて自問自答する。
― あの時、浅野様をお止めしなかったら如何相成ったであろう。武士の情けをもって見て見ぬ振りをすれば良かったのであろうか。いや、ワシは留守居役を仰せつかっておる。あれで良かったはずじゃ。― 
 与惣兵衛は何度、同じ事を思ったであろう。良かったはずと結論は出ているはずなのだが、釈然としない自分の思いを払拭できないでいた。
 後に与惣兵衛は松の廊下の刃傷事件について、高まる赤穂 贔屓《びいき》に数々の批判を浴びることとなってしまう。
「殿。」
 障子の向こうから与惣兵衛を呼ぶ声が聞こえる。
「如何した。」
「甲府宰相/綱豊様が家臣、新井白石殿が殿に拝謁を願っておりまする。」
「何、甲府宰相様の家臣じゃと。」
「はい。如何いたしましょう。」
― 甲府宰相綱豊といえば上様の甥御様にあたるお方。何故、ワシに。―
「追い返しますか?」
「いや、会おう。上様の甥御様の家臣なれば失礼のないようにな。」
「はっ」
 与惣兵衛は、身支度を整え白石に会うため部屋を出て行った。
 白石が待っている部屋へ向かう足取りが重く感じる。
 与惣兵衛が部屋に入ると白石は平伏して待っていた。
 与惣兵衛に続き梶川家の用人たちも続く。
「梶川与惣兵衛じゃ、面を上げい。」
「甲府宰相綱豊が家臣・新井白石でございまする。此度は、このような刻限に御無礼いたしました。」
「人目につかぬよう、わざわざこのような刻限を選び参ったのであろう。」
「恐れ入り奉りまする。」
「して、何用か。」
「はい。恐れい入りまするがお人払いを・・・。」
 与惣兵衛は、用人たちに出て行くように目配せをする。
 用人たちは白石を怪しむように見つめながら退出して行った。
「ワシに用とは、どんなことか。」
「はい。梶川様は、あの松の廊下での数少ない証人であるとか。」
「うむ、役儀によって浅野内匠頭様をお止めいたした。」
「その際、浅野様より何かお聞きになったことがございましょうか。」
「いや、何か言語不明瞭でただ叫んでおられたが。」
「いえ、何か仰られたはずでございます。」
「いや、言葉としては何も申されなんだ。」
「申されているはずでございます。」
「何を申したというのじゃ。」
「この間の遺恨覚えたるか・・・と。」
「何!」
 与惣兵衛は、目の前にいる白石を睨んだ。
「浅野様は、吉良様に向かってそう叫んだはずでございます。」
 白石は、いや甲府宰相綱豊は与惣兵衛に松の廊下での刃傷事件に手心を加えろと言っているのだ。
「梶川様。如何でございましょう。」
 与惣兵衛は、政事《まつりごと》に係わる恐ろしさを体の芯で感じていた。
「相分かった。綱豊様には、そのように申し伝えよ。」
「はい。それと今後、どなたかに刃傷事件のことを聞かれた場合も先程の浅野様の叫び、お忘れなきようお伝え頂きたい。」
「用向きはそれだけか。」
「はい。それだけお聞きくだされば、私はこれにて失礼いたしまする。」
 白石が手を揃えて頭を下げ、与惣兵衛の前から立ち去って行く。
 暫く、身動きもせずじっと前を見据えたままの与惣兵衛であった。
「誰かある!」
 与惣兵衛の声に家臣たちが集まる。
「墨と筆を用意いたせ!」
 家臣たちが用意のため一斉に動き出す。
― 表立って抗うことは出来まい。しかし、密かに誰にも知らぬところでなら・・・。―
 与惣兵衛は、今まで書きとめた日記を封印した。
― この二冊の日記。今語られずとも、後世の者たちがワシの真意を察してくれよう。―
 与惣兵衛の眉間のしわが一層深くなって、蝋燭の火にその影が照らし出されていた。

                 三

 鍛冶橋にある吉良家屋敷で義央は斬りつけられた傷の養生をしていた。
 傍らには妻/富子(とみこ)と家老/左右田(そうだ)孫兵衛(まごべえ)鳥居(とりい)利右衛門(りえもん)と一学が控えている。
「殿。お身体の具合は如何でございますか?」
 富子は刃傷事件から義央の体を気遣い甲斐甲斐しく世話を続けている。
「年は取ったが、あれしきの刀傷でどうにかなるワシではない。」
「いいえ。お年故、ご養生頂きまする。奥方様のご心配は尤《もっと》もなことでございます。」
 利右衛門は厳しい表情で義央に訴える。
「こういう時の利右衛門の顔は恐ろしゅうて敵わぬ。」
 利右衛門は、口が過ぎたとばかりに狼狽する。
 義央たちは利右衛門の狼狽振りに思わず笑ってしまう。
「しかし、今でもわからぬのだ。内匠頭殿は、何故ワシに斬りつけたのか。」
「殿。そのお話はお身体が回復された時にでも・・・。」
 孫兵衛が義央を気遣って言う。
「斬りつけられた方の身にもなってみよ。覚えがあるなら、いざ知らず・・・。何度考えてみても見当もつかぬのだ。」
「内匠頭様は、ご乱心あそばされたのです。」
 主を斬りつけた長矩の行為を利右衛門は許せなかった。その声は低く重々しく義央たちを黙らせた。
「殿に何も落ち度はございませぬ。お場所柄を弁《わきま》えず刃傷に及んだ故に、内匠頭様は上様の逆鱗にお触れになったのでございます。」
 孫兵衛は、昂《たかぶ》った義央の気持ちを宥《なだ》めようとする。
「だが、もっと詳しく詮議すべきだったのだ。」
 義央の悲痛な言葉は、その場にいる者の胸を締め付けた。
「殿、それ以上申されますな。畏れ多くも上様は殿に対しお体をご心配あそばされ、ゆっくり養生するようにと仰っておられます。」
 畏まりながら利右衛門は言う。
「それから、そのようにご政道へのご批判もお控えあそばされるようお願い申しあげます。」
 孫兵衛が追い打ちをかけるように義央に言う。
「わかった、わかった。暫く大人しくする故、それ以上申すな。皆、ワシに厳しすぎるわ。」
 義央のおどけた態度に、富子も声を上げて笑った。
 しかし、一学は吉良家に降りかかって来る災いの予兆を一人感じていた。
― 当家にとって都合が良過ぎる。このままで済むはずがない。―

               四

 義央のこと以外全て目論見通りに事が運んだ吉保だったが、やがて江戸ならびに国中で赤穂浪士仇討ちの噂が立ち始める。
 兵衛は、吉保の江戸城から屋敷への帰路に付従っていた。
 吉保の籠の隣に張り付いて歩いている兵衛は、正面を見据えたまま話をする。
「御前。」
「兵衛か。」
「はっ。予期していたことが・・・。。」
 籠の中から、吉保の声だけが聞こえてくる。
「赤穂の浪士共のことか?」
「ご存知でしたか。」
「ワシも城内で茶坊主共が話をしているのを耳にした。」
「赤穂の浪士共が内匠頭の仇を討つと、既に庶民の間にも広まっております。」
「お主が危惧した通りになったの。」
「はい。」
「どのように吹聴されておる。」
「浅野内匠頭は予てより吉良上野介から暴虐の限りを尽くされ刃傷に及んだと・・・。」
「そうか。」
 吉保は、あまりに根拠のない話に呆れる。
「この噂、これから真のように語られるに相違ござりませぬ・・・。」
「とうとうきたか?」
「いかにも・・・。」
 籠の中の吉保は、暫く考え込んでいる。
「これから何が始まる?」
 籠の隣で並んで歩いている兵衛は視線を前に向けながら答えた。
「浅野様への同情です。」
「同情じゃと!」
 思わず声を上げてしまった吉保は、我を取り戻そうと咳払いをして心の動揺を隠した。
「殿・・・。」
 兵衛は周りを警戒しながら吉保の気持ちをなだめる。
「吉良様は暴虐の限りを尽くし、浅野様を陥れた悪しき人物なのです。」
「しかし、それは真実では・・・。」
 切れ者と呼ばれる吉保が明らかに動揺していた。
「嘘が真に、真が嘘に・・・か。」
 大きな溜め息をついて吉保は呟いた。
「しかしながら・・・。今この泰平の世に、ご政道への反逆とみなされる仇討ちなど考える者が何人いるか。そう考えますると実行は、なかなか容易ではないかと・・・。」
「では、赤穂の者たちが吉良を狙うことなどないと申すか?」
 吉保の問いに兵衛は間を置いて答える。
「いえ、容易ではござりませぬが出来ぬ事ではないと存じまする。」
「何じゃと。」
「上様ならびに御前には敵が多ございます。片手落ちの御採決となれば国中が不満を抱いているはず。」
 兵衛は吉保が口を挟む余地を与えずに話す。
「上様や・・・。特に御前の御威光を地に落とすため此度の事を煽り立て、その赤穂の浪士共に手を貸す輩が必ず・・・。」
 表情は変わらず話す兵衛を籠の中から吉保はじっと見つめていた。
「これに赤穂の者たちが乗じるようなことがあれば・・・。」
「わかった。それら赤穂の者たちを束ねる人物は誰じゃ?」
「恐らくは、筆頭家老の大石内蔵助。」
 籠の中の吉保から返事はない。
「今後の憂いを無くすため、斬りますか?」
「待て。我等が表立って事を起こしてはならん。」
「では、どのように。」
「うむ。取り敢えず柳生を使うてみようと思う。」
「柳生を?」
「お主も耳にしたことがあろう。柳生には表と裏がある・・・。このような時のために、日頃エサを撒いておる。」
「なるほど。しかし、この泰平の世に以前のような働きが出来ますかどうか。昔の(つるぎ)今の()(かたな)と申しまする。」
「何にせよ、まずは小手調べじゃ。」
 吉保を乗せた籠は、神田橋の上屋敷へ向かっていた。

                  五

 江戸城桜田門の正面に位置している上杉家上屋敷で、藩主/綱憲(つなのり)は家老の色部(いろべ)又四郎(またしろう)に父である吉良上野介義央の様子を聞いていた。
「色部、父上の様子はどうであった。」
「内匠頭様に受けた傷は左程深くなく上様よりの思し召しもあり、お健やかな御様子でございました。」
「そうか。」
 綱憲は、吉良義央の長男であり実子であった。母は先代上杉(うえすぎ)綱勝(つなかつ)の妹で義央の正室富子である。寛文四年(一六六四年)藩主であった伯父の上杉綱勝が嗣子の無いままに急死した。米沢藩は無嗣断絶により改易されるところだったのである。それを綱勝の岳父であり将軍家光の異母弟であった保科(ほしな)正之(まさゆき)(陸奥国会津藩主)の計らいによって、義央と富子の間に生まれたばかりの綱憲を末期養子とすることで存続を許されたのだ。
「色部。」
「はい。」
「本日、城中でちと気になることを耳にした。」
「どのような事でござりましょう。」
「知らぬか?」
「はい。」
 綱憲がこれから語ろうとする話の検討は付いていた。しかし、色部又四郎は敢えて知らぬふりをしてみせる。
「松の廊下で父上を斬り付け、切腹した内匠頭の家臣共のことだ。」
「それが、何か?」
「父上を主君の仇として狙うているそうな。」
「左様でございますか。」
 色部又四郎は気にも留めない声で返事をする。
「何っ。」
 綱憲は色部又四郎の態度に怒りが込み上げてくるのを抑えた。
「驚かぬのか?」
「殿。」
「何じゃ。」
「此度の刃傷において、殿が吉良様をご心配なされるのは御子として当然のことではありまするが。それと同じく米沢十五万石の藩主としてのお立場もお忘れなきよう・・・。」
「何!」
「世情の言われなき噂に惑わされてはなりませぬ。」
 綱憲は抑えていた感情を爆発させ、色部又四郎にぶつける。
「父上の身に何かあれば、それこそ上杉家の名折れではないか!」
 綱憲の声が屋敷中に響き渡る。
「殿は、おわかりにはなりませぬか?」
「何がだ!」
「殿。」
 穏やかだった色部又四郎の声が激変し綱憲がたじろぐ。
 綱憲を見つめる色部又四郎の目が険しくなった。
「公儀は、隙あらばいつでも御家お取り潰しを狙うておるのです。この上杉も然り。」
 返す言葉もなく綱憲は唇を噛む。
「公儀は赤穂と吉良の争いに上杉家を巻き込み、それに乗じて上杉の御家を取り潰そうと画策しておるやもしれません。」
「余は・・・。余は、父上を見捨てることは出来ぬ!」
「軽挙妄動はお慎み下さい。全てはこの色部にお任せ下さりませ。」
 綱憲は体を震わせながら、そのまま立ち上がり部屋から出て行ってしまう。
「殿!」
 色部又四郎が呼び止めるが、綱憲は構わず退出してしまった。
「父上の御屋敷に警護の者を付けるのだ。よいな!」
 綱憲の大きな声だけが、色部又四郎の耳に入って来る。
 色部又四郎は、眼光鋭く険しくなった表情を部屋から見える空へ向けていた。

                六

 調達屋の店を須乃と三吉に任せ、多都馬は長兵衛と共に隅田川の(ほとり)を歩いていた。川の両岸に生い茂っている(あし)が風に揺れ、川面に反射する日差しに照らされ黄金色に輝いていた。
 安兵衛に会いに道場を訪れた二人だが、キチから隅田川へ一人で出掛けたと聞いて探しに来たのだ。
「堀部様は隅田川にどんな御用があったんでしょうね。」
「さぁな・・・。」
「うまく出くわせばいいですがね。こう広くちゃ・・・。」
 辺りを見渡すが人っ子一人いない。
「随分と寂しい景色になったな。」
「生類憐みの令で、遊びの釣りは禁止となりやしたからねぇ。」
「全く迷惑なことだ。」
「多都馬様。滅多なことを口にしないでおくんなせぇ。御上がお決めになった御法でございますぜ。」
「悪法は悪法だ。」
 長兵衛は、辺りを警戒して人がいないことを確認する。長兵衛の心配など全く気にしていない多都馬は安兵衛を探して対岸にも目を向ける。
「しかし、多都馬様。堀部様に何の御用で?」
「うむ。ちと良からぬことを耳にしたのでな、安兵衛のことが心配になったのだ。」
「良からぬこととは?」
「浅野様は予てより吉良様に遺恨があり刃傷に及んだというのだ。」
「遺恨!」
 長兵衛は思わず声を上げてしまう。
「吉良様にお恨みがあったというわけですか?」
「確かに御勅使饗応役の際、吉良様と行き違いが生じていたことはあった。」
「へぇ。しかし、それは多都馬様が御解決され事なきを得たはずでは?」
「そのことだけではあるまい。」
「そりゃ、そうでございましょうが・・・。」
「様々なことが日々繰り返され、それが耐えられぬ事情になり人は凶行に及ぶのだ。」
 多都馬は、話しながらも目は安兵衛を探していた。
「だが、安兵衛の話では吉良様の事を恐れこそすれ、そこまで恨みに思うておったかどうか。」
 長兵衛は多都馬の話に聞き入っている。
「乱心ならばまだ、上様の御処置に納得できずとも前例もある故、お家再興の道を模索できる。」
「過去にも似たような事が?」
「ワシが幼少の頃、志摩鳥羽藩主/内藤(ないとう)和泉守(いずみのかみ)忠勝(ただかつ)様が丹後宮津藩主/永井(ながい)信濃守(しなののかみ)尚長(なおなが)様を増上寺で刺殺している。この時、公儀の御沙汰は忠勝様乱心の上、知行お召し上げの上切腹。御家は断絶だ。」
「それじゃ、今回の刃傷事件と同じじゃありませんか?」
「違う。忠勝様が乱心という扱いになったため、弟君の忠知様の知行までは召し上げられなかった。」
「・・・ということは。」
「遺恨があってのことならば、主君の恨みを家臣が代わって果たすという者が当然出てくることになる。」
「それが堀部様ってことですか。」
 多都馬は、長兵衛の言葉に黙って頷いた。
「ワシの耳に入るくらいだ、当然安兵衛の耳にも入っていると思ってな。」
「それで多都馬様は堀部様をお探しに・・・。」
「あの男を今、放っておくのは危険だ。何をしでかすか分からん。」
「確かに・・・。」
 安兵衛の義理堅い気質から考えると、多都馬の危惧することが理解できる。
 長兵衛は半ば諦めかけてた安兵衛探しに本腰を入れた。
「堀部様、どこにいらっしゃるんでしょうね。」
 二人は葦をかき分けて水辺の辺りを探しに行く。
 この日、二人は安兵衛を探し出すことが出来なかった。

                  七

 赤穂城を明け渡し後、内蔵助は長矩の弟/長広(ながひろ)を立ててお家再興のため奔走していた。これには、多くの藩士たちが賛同し目付や老中に働きかけていた。
しかし、安兵衛たち急進派は仇討のための行動を起こし吉良義央の動向を監視していた。白石が流していた噂は急進派にとって、吉良義央を討つ軸となっていた。
 安兵衛は、奥田(おくだ)孫太夫(まごだゆう)赤埴(あかばね)源蔵(げんぞう)高田(たかだ)郡兵衛(ぐんべえ)中村(なかむら)清右衛門(せいえもん)と邸宅内で仇討ちの会議を行っていた。
「御家老は頼りになるのであろうか。」
 郡兵衛が心細い声で他の四人に問い掛ける。
「城内で藩士たちを(ふる)いにかけ、志を同じくした者を選定するなどなかなかやるではないか。」
 清右衛門が感心したように言う。
「それにしては、長広様を擁して御家再興に奔走するなど言うこととやることが違い過ぎる。」
「確かに。殉死追い腹を(ひるがえ)し仇討ちを決定したのは、その場を凌ぐための方便だったとも言える。」
「本来の目的は、御家再興だったというわけか。」
 孫太夫は腕を組んで考え込む。
「しかし、御家老のお立場では止むを得んのではないのか。一縷(いちる)の望み《のぞ》があるなら家老としてのそれが責務であろう。」
 清右衛門が失いかけている内蔵助への信頼を回復しようと擁護する意見を言った。
「清右衛門。お主は御家老と同じ考えだと申すのか?」
 源蔵が少し興奮気味に清右衛門に訴える。
「そうは申しておらん。ただ御家老のお立場も理解できると申しておるのだ。」
「ワシには上方の連中のように、仇討ちなど愚かだとしか聞こえんがな。」
 内蔵助を庇っているような清右衛門に源蔵が皮肉を込めて言う。
「源蔵!」
 清右衛門が源蔵につかみ掛る。孫太夫が二人の間に割って入り、つかみ合っていた二人を引き離した。
「馬鹿者!我等が争って如何する。敵は上野介ぞ。」
 安兵衛は二人の様子を見た後、無言で部屋から出て行ってしまう。
「安兵衛!」
 孫太夫が慌てて後を追って出て行く。
 安兵衛と孫太夫が出て行くのを見て源蔵と清右衛門はため息をついて肩を落とした。
 孫太夫は出て行った安兵衛を探して人混みをかき分け歩いている。
 やっと通りを歩いている安兵衛を見つけ、孫太夫は肩をつかんで声を掛ける。
「待たぬか!」
「何だっ」
 呼ばれて振り返る安兵衛の顔は怒りに満ちていた。
「どこへ行くのだ?」
「どこでもよかろう。」
「待たんか。」
 孫太夫が安兵衛の肩をつかんで引き戻す。
「ワシは一人でも上野介を殺る。御家老のお考えなど、どうでもよいわ!」
 孫太夫は、安兵衛の顔をじっと見つめる。
「よし、わかった。好きにいたせ。だが、一人より二人、二人より五人のほうがよくないか?」
 孫太夫はそう言って、安兵衛の肩にそっと手を置いた。
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