白衣とブラックチョコレート

死の足音

幸子が覚悟を決めたような顔で走り去っていったのを見て、雛子は僅かにほっとした。

「うっ……!?」

その隙をつき、河西は雛子の腹部を思い切り蹴り飛ばす。

「っ……!!」

幸子に気を取られていた雛子は、壁に強かに背部を打ち付ける。体勢を崩した雛子に、河西が素早く間合いを詰めた。


「ありがとう、雨宮さん……貴女、私にとっても良くしてくれたわね……次はどうか、ヴェラドンナの灯火として会いましょう……?」

「ヴェラ……ドンナ……?」



『おばあちゃんっ……!』



ナイフが迫ってくるのがスローモーションのように見えた。

その瞬間、雛子の中に幼き日の記憶が蘇る。



『ねぇおばあちゃん、ヴェラドンナ様ってだぁれ?』




『彼女はね、我々に命の灯火を繋いだお人……聖女様、なんだよ』



「聖女、ヴェラドンナ……命の、灯火を────……」



雛子の呟いた言葉に、河西の目が大きく見開かれた。



「貴女、もしかしてっ……」




河西のその表情は驚愕か、それとも信仰する聖女への畏怖か。

雛子は知る由もない。



「うっ……あ゛っ……」



気付いた時には、勢い良く突き出されたナイフが雛子の腹部に飲み込まれていた。

「っ……!」

激しい痛みのあまり声も出せずに崩れ落ちた雛子は、そのまま更に下の踊り場まで転げ落ちる。遅れて無機質な音を立て、雛子の横にはナイフが転がった。


「あっ……河西、さ……」


呻きながら、雛子は河西を見上げる。その顔は、先程までの冷たい表情とは違い恐怖に染っていた。


「私は……何てことを……灯火を……灯火をっ……」


そう呟き、河西はよろよろと覚束無い足取りで階段を上っていく。


「待っ……て、行かないで……っ……!」


彼女の後を追わなくては。そう思い何とか仰向けから起き上がろうとするも、上手くいかない。

腹部が焼けるように熱い。傷口に鋭い痛みが走る。


「はあっ……河西さ……っ」


身体が言うことを聞かない。腹部を押さえると、ぬるりと湿った嫌な感覚がした。それでも雛子は、何とか河西の後を追おうと懸命に階段を這いずり上がる。


(どうしようっ……だれ、か……)


しかし遂には、身体がどんどんと重くなっていき一歩も動けなくなった。助けを求めようにも、声を出すことすらできない。


(……桜井、さんっ……)



飛びかけの意識の中、PHSの呼び出しが聞こえる。



出なければ。



そう思い、何とか力を入れて手繰り寄せたのに、肝心の通話ボタンをうまく押すことができない。

画面に表示されているのは、恭平の持つPHSの番号。


「さく……ら……さ……」



きっと心配してくれているんだ。

確信はないけれど、そうだったら良いなと思った。こんな時くらい都合良く解釈したい。


電話は一度切れ、すぐにまた同じ番号からコールがあった。

何度も、何度も。


やがて目が霞み始め、番号すら認識できなくなる。


(ああ……もう……飽きれてる、かもな……)


遠のく意識の中、思い出したのは今朝の占い。ニュース番組のオマケにしては、当たり過ぎと言っていいほどの結果だ。


(ラッキーパーソンは……どんな人だったっけな……)


その人物さえ確保できていればもしかするとこんな結末は回避できたかもしれないというのに、肝心な部分を忘れてしまっていた。最悪だ。


「はっ……はあっ……」


瞼が重い。

死の足音が、暗闇の淵からひたひたと迫ってくる。



雛子がこの足音を聞くのは、これで二度目だ。








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