白衣とブラックチョコレート

大晦日

「良いお年を〜」

就業時刻を回ると、日勤のスタッフ達は皆足早にステーションを去っていった。

せめて大晦日くらいは誰しも早く帰りたい。いつもより早く静かになった8A病棟では、夜勤者の三人だけが仕事に奮闘していた。

とはいえ、リーダーの石川は相変わらずの鉄仮面でシフト作りに没頭しており、恭平は要領良く業務を終わらせ涼しい顔で記録を入力している。

実質バタバタと走り回っているのは雛子だけだ。

「や、やっと戻ってこれたぁ〜……」

へろへろになりながらステーションに帰ってきた雛子は、石川が面談室に篭っているのを確認すると少しだけ肩の力を抜いた。

「もう二十三時半回ってる……あと少しで年明けですねぇ」

時計を見ながら感慨深げにそう述べる雛子とは裏腹に、恭平は面白くなさそうに小さく溜息を吐いた。

「ったく、今年はどこぞの御曹司のせいでボーナスもパァだし、散々な年末だったな……」

「う、す、すみません……」

結局、高級ホテル代は二人のボーナスから賄い何とか事なきを得た。まだ一年目の雛子はそれほど貯金もなく、大部分を恭平に払わせてしまったのだった。

「しかも締め括りは夜勤かよ……」

恭平がシフトへの不満を述べた瞬間、面談室の方から突き刺さるような冷気が漂ってきた。

「ひっ……」

目を向けると、シフト作りをしていたはずの石川が鋭い眼光を光らせてこちらに向かってくる。

当然、本日のシフトを決めているのも石川なのである。

「ま、まぁ良いじゃないですか〜。大晦日って状態の良い患者さんはほとんど外泊されてるし、入院も滅多にないんですよね? こんな日に夜勤だなんてむしろラッキーですよ、特別手当も入りますし!」

雛子としては石川をフォローするつもりの発言だったのだが、結局ギロリと睨まれたのは恭平ではなく雛子の方だった。

「随分と余裕の発言ですね、雨宮さん。人数が少ないとはいえ重症の患者さんばかり残っているんですから、気を抜いているとインシデントどころじゃ済まなくなりますよ。それにお金目当て? 一年目の分際で、よくもまぁそんな口が利けたものですね」

ピシャリとそう告げられ、雛子はびくりと身体を揺らす。もはや一切の言い訳をせず、雛子に出来ることは全力の謝罪とここから逃げることのみだ。

「で、ですよね! すみません! ちょっとラウンドに行ってきまーす!」

威勢よく宣言し、戻ってきたばかりのステーションを後にする。先程ラウンドしたばかりだが、念には念を、点滴や環境整備を念入りに行う。

「よし、皆寝てるし、問題なしっと」

全部屋を隅々までチェックし、ついでに零時分の点滴更新も済ませる。仮に気まぐれに石川がラウンドしたとしても、何か注意されることは無いはずだ。

気付くと、時刻は年明けまであと数分の所まで迫っていた。

雛子はふと、今は空室になっているとある個室へと足を踏み入れる。

「翔太くん……」

そこはかつて、雛子がサブプライマリーとして受け持ちをした藤村翔太がずっと入院していた部屋だった。

ついこの間もここに塔山が入院していたが、やはりひとたび退院してしまえば全て綺麗に消毒され、人の気配は跡形もなく消されてしまう。

当然、翔太の気配も感じられることはなかった。

ブラインドが開けられたままの窓辺に立つと、冷たい外気が火照った頬を優しく撫でた。

「私、今年は翔太くんにたくさんのことを教えてもらった。看護師として、たくさんたくさん成長させてもらった」

もうすぐ、年が明ける。翔太を置いて、雛子は新しい年に向かう。

「ありがとう、翔太くん」




『何言ってんだ、バカ雛子』




照れくさそうにしながら、それでも小さな笑みでそう口にする翔太の姿が思い浮かび、雛子も釣られて笑顔になった。



「……何やってんだ、こんなところで」


不意に病室のドアが開き、恭平が入ってきた。あまりにも戻りが遅い雛子を探しに来たのだろう。雛子は「すみません」と謝りながら、いつの間にか目に浮かんでいた涙を指先で拭う。


「私、来年も頑張ります。看護師として、人として、患者さんに、桜井さんや皆さんに教えてもらったこと、絶対無駄にはしません」

「……おう」


雛子の宣言に面食らったような恭平だったが、すぐにいつものように大きな掌を雛子の頭に置いた。



その時遠くの方で、除夜の鐘が響く。こんな都会の中にも、鐘を鳴らすような寺があるのかと雛子は目を丸くする。




「……もう新年だな。今年もよろしく」

「はいっ! よろしくお願いしますっ!」



暗い病室の中、小さな窓から差し込む都会の明かりに照らされながら、二人は目を合わせて笑い合った。

















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