昼は伯爵家の家庭教師。
 夜は仮面舞踏会の華。

 リコリスが夜の世界に足を踏み入れたのは、ロクサーヌと彼女の友人であるダンスホールの支配人に頼まれたからだ。

 他国で流行している仮面舞踏会をいち早く取り入れたのは、他ならぬ「エトランジェ」だった。
『素性を隠しての恋の駆け引き』を売りにしたいダンスホールとしては、仮面をつけているからと無礼講のような乱痴気騒ぎになることは望んでいない。若い女性に煙たがられるようでは話にならないし、遊びの手本となるレディが必要だ。

 そんな相談に乗ったロクサーヌが、リコリスをサクラとして参加させることを思い付いたらしい。緊張している客と会話をして場を和ませたり、ダンスのパートナーを務めて、ちょっとした駆け引きめいたことをしてきて欲しい、と。

 当然リコリスは断った。やってくるのは貴族のお坊っちゃまばかりなのだ。まともに相手なんてできっこない。そもそもちょっとした駆け引きめいたことなんて言われても、恋人のいないリコリスにとっては無理難題すぎる。

『大丈夫。仮面をつけてしまえばあなたが誰かなんてわからない。駆け引きだって簡単よ。一度ダンスに応じたら、二度目の申し込みは断ってしまえば、それだけで相手にとっては十分駆け引きに見えるわ』

 ロクサーヌにうまく言いくるめられて出た仮面舞踏会で、リコリスは彼女の言うとおり、ダンスと会話だけに終始した。

 すると不思議なことに、リコリスとのダンスを望む男性客が後を絶たなくなった。

 ダンスをして、そのあと当然のように良い雰囲気になると思っていたところを断られるのだ。逃げる獲物を追いかけたくなるのが男性の性分というものらしい。

 おまけにリコリスの正体は誰も知らないため(貴族じゃないのだから当たり前だ)、一体何処の令嬢なんだと囁かれるようになる。叔母の知り合いである支配人も、話題作りのために話を煽った。

 かくして「難攻不落の令嬢」なんて渾名をつけられたリコリスことレディ・バイオレットは、昼と夜の二重生活を送るようになってしまった。

 けれど、こんなことをしているなんて伯爵家にバレたらクビになってしまうだろう。家庭教師が夜遊びをしているなんて外聞が悪い。

 ダンスホールは貴族でなくとも正装していれば入れるが、逆に言うと見栄えのいいドレスや仮面を用意できるようなお金がないと入れない。リコリスが貴族じゃないと知れたら、客たちに罵られるかもしれなかった。

「叔母さま、一体いつまでこの生活を続けるんです?」

 エトランジェは今やすっかり若者で賑わうようになったし、もうリコリスは必要ない気がする。
 そう言うと叔母は悲しそうな顔をして、

「そんなぁ。寂しいことを言わないでちょうだい。こうしてリコリスで遊――可愛い姪っ子を素敵に変身させるのが、今のわたしの楽しみなのよ」

 わざとらしくしょんぼりした顔をして見せるのだ。叔母の娘は皆遠くに嫁いでしまったため、寂しいらしいということはわかっているが……。

「そうですよ! リコリスお嬢さまのために仕立てたドレスもいっぱいありますし、まだ試したいドレスはたくさんあるんですからね」
「ええ! もし私の考えた新しい髪型が貴族の間で流行ったりしたら、私は流行の最先端をいっているという証明になりますわ!」
「私も、どんな貴族がリコリスお嬢さまに骨抜きになってしまうのか、噂を聞くのを楽しみにしているんですのよ」

 メイドたちにも援護射撃をされ、叔母は勝ち誇ったように微笑む。

「さあ。ほら、仮面をつけて?」

 促されて、派手な仮面で目元を覆う。鏡の中には謎めいた令嬢の姿が出来上がっていた。
 その肩にロクサーヌがそっと手を乗せる。

「もし、リコリスが素敵な相手を見つけたらその先に進んだっていいのよ? あなたももう十九歳。恋のひとつやふたつしなければ」
「仮面を外せば、わたしはただの地味な女よ。誰も相手にしないわ」
「そんなの、外してみなければわからないわ。それに――」

 あなただってこのゲームを楽しんでいるんでしょう?

 からかうように囁かれ、リコリスは否定出来ずに黙る。

 仮面をつければ自分ではない、別の誰かへと生まれ変わる快感。
 真面目な家庭教師の仕事と、夜の危険な遊びというスリリングな生活は、甘い猛毒のようにリコリスを蝕みつつあった。


 ◇


「ようこそ、エトランジェへ。おや、レディ・バイオレット。今日は一段と美しい装いだ」

 出迎えた支配人に、リコリスは赤い紅を塗った唇を上げて見せる。

 シャンデリアがきらびやかに光るダンスホールは今日も盛況だ。大胆に開けられた胸元に男性たちの視線を感じ、妖艶に微笑んでみせる。

(わたしも、だいぶ毒されてるわ……)

 こんなドレス、「リコリス」なら恥ずかしくてとても着ることができない。
 仮面をつけているから――「バイオレット」という架空の人物だからこそ堂々としていられるのだ。

(世が世なら優秀な諜報員(スパイ)になれるかもしれないわね)

 自嘲気味に笑いながら、さて、とホールを見渡す。
 やたらと手持ちぶさたな男性が多い。おや? と思うと、ホールの隅に女性が密集しているのだ。彼女たちは背の高い、銀の仮面をつけた男性を取り囲んでいた。

(どこかの有名な子息かしら。さすがに王族ってことはないでしょうけど)

 仮面をつけていても、頻繁に顔を合わせる貴族同士であればなんとなく正体の予想はつく。例えば、端でワインを呷っている小太りの男性は酒癖の悪い某子爵で、警備がさりげなく目を光らせているとか。いつも黒いドレスのマダムは早くに未亡人となった某公爵家の人間だとか。

 気づいたとしても互いに気づかないふりをするものだし、普段は手の届かないような相手とあわよくば――なんていう打算が働いたりもする。

 ともあれ、女性客が一人の男性客に集中しているようなので、リコリスは他の男性客の誘いを積極的に受けることにした。ダンスフロアはがらがらで、楽団たちの士気もいまいち上がっていなさそうだ。

「こんばんは。レディ・バイオレット」
「あら、こんばんは」

 口髭を蓄えた紳士に声をかけられて微笑む。

「どうです? 一曲踊っていただけますか?」
「ええ、もちろん」

 リコリスと紳士がさっとフロアの中心に出ると人目を引いた。リコリスが動けば、背に結んだ深紅のリボンがひらひらと揺らめく。ロクサーヌ一押しの装飾部分だ。

「フロアを独り占めしているみたいで悪くないわね」
「ええ、そうですね。しかもお相手がレディ・バイオレットとは私も鼻が高いですよ」

 落ち着いた声音と慣れたリードだ。
 年こそ離れているものの、こういう相手と結婚したら幸せになれるのかもしれない。……いや、妻に内緒で夜遊びしているのだったら言語道断か。

 ロクサーヌは「もし素敵な相手がいたら」なんて言うけれど、彼らにとってこの集まりはただの道楽に過ぎない。

 たとえ燃え上がるような恋をしたって、仮面を外した彼らには可愛い婚約者や妻が待っているのだ。

 だからリコリスも仕事のようなものだと割り切って令嬢の真似事が出来る。誰にも心を許さないから、正体を見破られる心配もない。

 優雅に一曲踊り終えると、口髭の紳士は「もう一曲いかがですか?」とこれまた実にスマートに誘いをかけてきた。

 そうねえ、と思わせぶりに微笑むと、横から別の誰かの手が差し出された。

「――貴女がレディ・バイオレットか。ぜひ俺とも一度踊っていただきたい」