「おい、家庭教師。昨日の俺の話を聞いていなかったのか?」

 庭で遭遇したオーランドは、今日は一人だった。

 相変わらずの高圧的な態度で見下ろされる。リコリスの位置からは首元を見上げる形になるため、思わず喉仏の下の黒子に視線が吸い寄せられた。

(やっぱり昨日の、どうみてもオーランド様よね)

 昨夜はあんなに色っぽく誘惑する声を出していたのに、この態度の差は一体なんなんだと問いたい。

「勉強の時間は遊びの時間ではないと言わなかったか?」
「……申し訳ありません。チェルシー様とターニャ様が休憩をしたいとおっしゃいまして。息抜きも必要かと」
「ふん。お前の授業は息抜きばかりだな」

 吐き捨てるように言われて確信する。どうやら、バイオレットがリコリスだとまったく気づいていないようだった。

(そりゃあそうよね。わたしは中流家庭の娘だし、あんなに豪華なドレスを持っているなんて思うはずもないわ)

 バレていないとわかれば気が楽になった。

 所詮、ちょっと着飾っただけでころっと騙されるような男なのだ。キスされたくらいで動転してしまって馬鹿馬鹿しい。オーランドにしてみたら、あんなもの日常茶飯事だろう。

「リコリスせんせー! あっ、お兄さまもいるわ!」

 パタパタと駆けて来たターニャは、オーランドの姿を見て嬉しそうな声を上げる。

 後から追い付いたチェルシーは、妹よりは淑やかにスカートの乱れを直しながら「ごきげんよう、お兄さま」と笑った。

「リコリス先生、白銀の花なんて咲いていないわよ」
「そうよ! 本当にあるの?」
「もちろんですわ。ここからでも見えますわよ」

 くすくす笑うリコリスにオーランドが眉を吊り上げる。リコリス達が勉強をサボって遊んでいると思っているのだろう。


 When daisies pied and violets blue,
(まだらなデイジー、紫色のスミレ)
 And lady-smocks all silver white,
(白銀色のレディスモック)
 And cuckoo-buds of yellow hue,
(黄金色したキンポウゲ)


 詩の一説を読み上げたリコリスは、「オーランド様はレディスモックの花はご存知ですか?」と問う。

 オーランドは僅かに目を見開いたが、「……いや、知らない」と素直に答えた。

「レディスモックの花はこれですわ」

 庭の一角に高さ十五センチほどの緑色の茎がいくつも伸びている。ピンとした葉軸から、左右に小葉がいくつか並び、上を向くようにして白っぽい蕾がぷっくりと揺れていた。

「え! でも、これちょっとピンクがかっているし、白銀じゃないわ」
「そうよ。もっとゴージャスな花かと思っていたわ」
「遠目からたくさん生えているところを見ると、白銀の花が揺れているように見えるの。それに、この詩に出てくる花はゴージャスな花なんかじゃなくて可憐な野花ばかりよ。こんなに小さな花なのに、花言葉は『情熱』や『燃える思い』なんていうもので……」

 物珍しそうにレディスモックに触れる姉妹に、リコリスは隣にオーランドがいることも忘れて、ついいつものようにペラペラと解説してしまった。

 あ、と途中でオーランドの顔色を窺うと、彼は意外にも真面目にリコリスの解説を聞いている。

 オーランドはふと考えるような仕草をすると、
「スミレの花言葉は?」
「はっ……?」
 驚いたリコリスを目を細めて睨む。

「答えられないのか?」

 唐突な問いに戸惑いながらも、リコリスは望みの答えを口にした。

「スミレの花言葉は『謙虚』『誠実』『小さな幸せ』です。特に、紫のスミレは貞節や愛……、女性が男性に尽くすという意味合いが込められています」
「……ふうん」

 男性が女性に求める理想像というわけだ。特に意外性もなかったのか、オーランドはつまらなさそうな顔をした。

「ああ、青のスミレには用心深いという意味もありますわね」

 思い出したかのように付け加えたリコリスに、オーランドは何か思うところがあったらしい。

「ふ。そうか。……勉強になった」

 にやりと笑って去っていく。
 珍しい兄の笑顔に、妹たちが互いの顔を見合わせた。

「え? お兄さま、今笑った?」
「本当。珍しいこともあるものね」

 ――レディ・バイオレットの仮面の色は紫。しかし、仮面にあしらわれた花の色は青だ。

 叔母の持ち物である紫の仮面に、リコリスは花の飾りを足してもらった。それは仮面をつけた貴族の遊びの中で「誰も信用しない」というリコリスの意思表示のつもりである。


 ◇


 一週間ほどエトランジェには行かず、ロクサーヌも無理に勧めてくることはなかった。

 リコリスは本を読んだり、自宅の庭を見に戻ったり、ごくごく平凡な日々を過ごしていたのだが……。

「大変よ! リコリス!」

 伯爵邸から戻ったリコリスにロクサーヌとメイドが詰め寄ってきた。

「な、なんですか、いきなり……」
「昨日、エトランジェにバイオレットが現れたんですって! 一昨日も!」
「……わたしは昨日も一昨日もここにいましたよ」
「そんなことはわかっているわよ! だから、あなたの偽物が現れたのよ!」

 ロクサーヌは怒り心頭だった。彼女が支配人に聞いたところによると、バイオレットと似たスミレの仮面をつけた亜麻色の髪の令嬢が、まるでバイオレットを真似るように振舞っていたのだとか。

「……別にいいじゃない。そうしたら、もうわたしが行く必要もな――」

「良くないのよっ! その偽物はね、ホールでべたべた男と抱き合ってキスしたり、あまつさえ金持ちのふとっちょ公爵の愛人になりたいとねだっていたんですって! バイオレットの名前を貶めるつもりなのよ!」

「ちょ、ちょっと叔母さまったら、落ち着いて」
「許せないわ! わたしたちのバイオレットを馬鹿にして~っ!」

 誰の誘いにも乗らないから、バイオレットは「高嶺の華」として憧れを集めているのに、悪評が広まってはエトランジェの風紀は乱れるだろう。

「だからリコリス! あなたが本物だって見せつけてきてやりなさい! 教養も美しさも、偽物が本物にかなうはずもないんだから!」

 ぱちん、と指を鳴らしたロクサーヌに、メイドたちはドレスにメイク道具、宝飾品を手ににじり寄ってくる。

「えええ、ちょっと、待っ――」
「さあ、覚悟なさい! 偽バイオレット!」

 おほほほほと高笑いするロクサーヌのほうが悪役のようである。

 あっという間にドレスアップさせられたリコリスは馬車に乗せられてエトランジェへと運ばれることになってしまった。