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「おはようございます! すみません、遅くなっちゃって……」


幸生を保育園へ送り届け、そこから十分ほどの距離にある診療所に着いたのは、八時四十五分。
ベテラン看護師の山岡さんはすでに出勤していて、待合室には患者さんの姿もある。


「全然よ。急ぎの患者さんではないし」


小さな町だから、毎日病人が大量に発生するなんてことはなく、患者さんイコール世間話をしに来るご老人――いわゆる常連さんがほとんどだ。

ひとり暮らしの高齢者は、身体の不調を年のせいだと考えて、病気のサインを見逃してしまう場合が多々ある。
話を聞くのも大事な仕事だと、ここ「浜町診療所」の所長を務める大鳥(おおとり)先生は言う。

人口六千人弱。漁業と農業から成り立つ海辺の小さな町には、高度な医療を提供する病院なんてない。
大きな病気や怪我は隣町の総合病院にかからなくてはならなず、小さな診療所が町民のかかりつけ医であり、命綱だ。

子どもから大人まで。風邪から大病の予兆まで。
あらゆる症状に対して診断を下し、適切な処置をしなくてはならないのだから、生半可な覚悟と知識、経験ではとうてい務まらない。

山岡さんから聞いた話では、所長は腕のいい外科医で、どこぞの大病院で院長をしていたらしい。

しかし、日々患者と向き合う地域医療に貢献したいと、地位や収入、家族すらもなげうって、先代の所長からこの診療所を引き継いだのだそうだ。

そんな熱意あふれる所長だが、赴任した当初は、歯に衣着せぬ物言いと厳しい指導で患者たちに恐れられていたという。

しかし、どんな些細なことでも丁寧に説明する誠実さ。確かな診立てと適切な治療。名医と呼ばれるに相応しい人だと町民たちが認識するまで、さほど時間はかからなかった。

いまではすっかり町に溶け込んで(自他共に年を取って丸くなったと言っている)、子どもやその母親たちからは、「大鳥先生」ではなく「おひげの先生」または「おじいちゃん先生」と呼ばれ、慕われている。

わたしの息子、幸生も例に漏れず、生まれた時から――正確に言えば、わたしのお腹の中にいる時から所長にお世話になっており、とても懐いていた。

所長は、シングルで子どもを産もうとしているわたしを雇い、医療事務の資格を取るのを応援してくれた上、出産後も慣れない子育てに四苦八苦しているのを助けてくれた。

周囲には、遠い親戚で、両親を亡くしているわたしの親代わりなのだと説明しているが、信じていないひともいるだろう。
幸生が所長の子だ、なんていう下世話な噂が流れずに済んでいるのは、ひとえに所長の人望のおかげだ。