白いシャツの少年 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】
エピローグ
 物語を読み終えると、蛍里はゆるく息を
吐き出した。そうして、静かに本を閉じる。
 読み返すたびに心に沁みる読後感は温かで
やさしいものだけれど、それだけではない
複雑な想いが、くっ、と胸奥(きょうおう)を締めつける。
 ぼんやりと視線を上げれば、さっきよりも
少し強くなった陽射しが、枳殻の緑をくっき
りと庭に映している。

 どれくらい時間が過ぎたのだろう?
 そろそろ、一久さんを起こさないと。

 そう思いながら和室を振り返った蛍里は、
そこにいた人物を見、緩やかに目を見開いた。

 「おはよう。物語は読み終わった?」

 日本伝統の涼素材である、しじら織りの寝巻
を着た一久が障子に背を預け、微笑んでいる。
 蛍里はずっと見られていたことに面映ゆい
笑みを返しながら、「はい」と頷いた。

 「いつからそこに?」

 「しばらく前から。ころころと変わる表情
が愛らしくて、つい、声を掛けそびれてしま
ってね」

 揶揄うように言って、蛍里の隣に腰かける。
 沓脱石には、蛍里が履くサンダルの他に、
もうひとつ、男物の下駄が置いてある。
 それに一久が足を通すと、蛍里は拗ねた顔
を向けた。

 「声を掛けてくださいって、いつも言って
いるじゃないですか。卵は熱いうちに食べた
方が美味しいんですよ」

 こうして読書に没頭している蛍里を眺める
のは彼の日常で、そのせいで朝食に焼いた
だし巻き卵が冷めてしまったと拗ねるのも
蛍里の日常だ。判を押したようなそのやり
取りに目を細めると、一久は蛍里の手の中
の本を覗き込んだ。

 「また、それを読んでいたんだね。もう、
暗唱できるくらい読んだでしょう?」

 その言葉に小首を傾げながら、蛍里は指
を折り始める。4、5、6と小指を立てた
ところで、一久が小さく吹き出した。

 「詩乃守人さんの物語は何度読んでも、
飽きないんです。それに、このお話だけは
どうしても私たちの境遇が重なって見えて
しまって……いまさら、悔やんだところで
あの日には戻れないってわかっているんで
すけど、侑久君の勇気が羨ましくて」

 少し古びてきた表紙を撫でながら、目を
伏せる。『白いシャツの少年』を読み返す
たびに思うのは、あの夜、上司だった一久
の手を取ることが出来なかった自分の不甲
斐なさだ。もし、侑久がそうしたように
一久を攫うことが出来ていたなら、胸を
引き裂かれるような痛みを知らないまま、
どちらも幸せでいられたかも知れない。

 「きっと、一久さんが背負っているもの
のためだけに諦めたんじゃないと思うんで
す。一久さんが失うものを埋められるくら
い、自分に与えられるものがあるとは思え
なかったから……だから」

 そこまで言って、蛍里は言葉を止める。
 この物語を読むたびに感じる想いは変わ
らないのに、どうしてか今日はいつにも
増して、胸が苦しい。
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