拝啓 まだ始まらぬ恋の候、
九、 春爛漫の季節となりましたが、

『こちらは海の幸も日本酒もおいしくて、今は少し酔っています。字が読みにくかったらすみません。
そちらの桜はちょうど見頃でしょうか。ぜひ花も団子も楽しんでください。』

廉佑から届いたポストカードは、古い町家と手をつなぐように桜並木が続いている写真だった。

あれから二週間。
差出人である廉佑は東京で対局中である。

棋聖戦挑戦者決定戦。

前タイトルホルダーである廉佑は、決勝トーナメントからの出場で、順調な勝ち上がりを見せた。

対局は平日なので、芙美乃は中継をほとんど見ることができない。
昼休みに覗いたときは対局も昼休み。
形勢を表す評価値もまだ互角を示していた。

前回出した手紙に『頑張ってください。』とは書けなかった。
友人と観に行った映画の話と、職場でのトラブルのことだけ。
観ていないふり。
調べていないふり。
対局中によく注文すると知っていても、『豚の生姜焼きがお好きなんですね。』とは書けない。

少しだけ残業して、途中で弁当を買って家路についた。
桜を散らす夜風はまだ冷たく、薄手のコートでは寒いけれど、ほのかに初夏の、みどりの香りが近づいている。

遊歩道に数本ある桜も、半分ほど散っていた。
ベンチには誰もいない。
あれきり、誰かがいたことはない。
ささくれ立った座面に座ってみると、じわりと冷たく感じた。

スマートフォンのアプリで中継を見たら、廉佑は脇息を盤と自分の間に置いて、そこに突っ伏していた。
昼休みにちょっと昼寝するときと同じスタイルである。
ときどき右手が動いて、ぐしゃぐしゃと髪を乱す。

絶望しているようにも、苦悩しているようにも見えるけれど、評価値は廉佑が78%と優勢だった。
解説者によると、廉佑のこのスタイルは形勢に関わらず、いつものことらしい。

むくりと起き上がった廉佑は、脇息をどけて盤に近づいた。
盤を映した画面にも、廉佑の跳ねた髪の毛が映り込む。
数十秒そうして眺めたあと、おもむろに歩を取って銀を進めた。
あんなに悩んで指したのに、ごくあっさりとした手つきだった。

すらりとしてうつくしいけれど、か弱さと無縁の手は、水を飲むときや、髪を掻き上げるときと同じ、感情のこもらない手つきで、今日は相手を追い詰めていく。

『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』

記録係が秒を読み上げる中、相手は焦った手つきで廉佑のと金を取る。
廉佑はもう頭を抱えることなく、さらりと金を打った。
相手は玉を逃がす。
廉佑は香車を打つ。
歩を打つ。
歩を取って香車を成る。

七時まであと十分を切って、相手が投了した。
112手。
生駒廉佑が棋聖への挑戦を決めた。

『最高の舞台でまた戦えるので、しっかり準備して、一局一局精一杯指したいと思います』

――すごい。これ、たぶんすごくすごいことだ。

芙美乃は心臓を抑えるように、胸のあたりをきゅっと握る。

『ではここで、棋聖戦の日程をご紹介いたします。第一局は六月六日、愛知県名古屋市――』

女流棋士の言葉を聞いて、芙美乃の心臓は大きく脈打った。
芙美乃の自宅近くのあのホテルで、今年も棋戦戦の第四局が開催“予定”であるらしい。

しかし、棋聖戦は五番勝負で、先に三勝した方が一年間棋聖を名乗る。
ストレートで勝負が決した場合、この第四局は行われない。

――「お待ちしてます」とは、言えない。

第四局が行われるためには、少なくとも廉佑が一敗はしなければならない。
今は「会いたい」と言ってはいけないのだ。

どうせ言えはしないけれど。


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