拝啓 まだ始まらぬ恋の候、
十一、 夏はまだ始まったばかりですが、

――あの夜はもっと暑かった。

駅を出た芙美乃は空を見上げてスーツケースの持ち手を引く。

七月中旬の夜空は闇の色が薄い。
夏の、火薬のような匂いがする。

今日まで研修に行っていた東京は、痛いほどの晴天が続いていた。
こちらに帰ってみると夜風はまだ涼しい。

二十一時の駅前はさほど人も多くない。
キャスターのゴロゴロという音がロータリーに流れて消える。

コンビニで軽い夕食を買って、バスに乗って十数分。
大きなホテルの向かい側にあるバス停で降車した。

四車線ある通りを挟んでも、ホテルのきらびやかな明かりは芙美乃にまで届く。

昨日は、もっとずっと賑わっていたのだろう。
二敗一持将棋と追い込まれていた廉佑は、昨日このホテルで一勝を返し、決着は再度持ち越しとなった。
防衛を期待していた者は肩を落とし、奪還を望んでいた者はほっと息をついた。
去年、あのベンチに座っていた姿を知っている芙美乃も、東京のホテルで安堵の声をあげた。

研修が入ったのはただの偶然だった。
避けたわけじゃない。

ホテルを背に芙美乃は歩き出した。
通りを数本入るとたちまちしずかな住宅街になる。

避けたわけじゃない。
でも、気持ちの上では逃げた。
どんな顔をして会ったらいいのかわからなかった。
そもそも、会えるかどうかわからなかった。
会いたいと思ってもらえるかどうかわからなかった。
思ってもらえない気がして怖かった。
廉佑からの手紙は、途絶えたままだったから。

遊歩道にたたずむ街灯には、無数の羽虫が靄のようにたかっていた。
ヒメジョオンの葉を踏みながら防護柵を通ると、キャスターが土と芝生をサリサリと踏む。
その音は意外なほど大きく響いて、近くにいた人影がふり返った。

「おかえりなさい」

昨日賑わいの中心にいた生駒廉佑九段は、勝者にはふさわしくない寂れたベンチにいた。
一年前とは別人のような明るい声で。

「会ってもわからなかったらどうしようって、少し心配だったけど、よかった。ちゃんとわかった」

「え……なんで?」

対局から一夜明けて、廉佑は地元の関係者とともに観光物産館を訪れた後、新幹線で東京に戻ったはずである。
地方紙のWeb版でそう読んだ。

純粋な疑問は、拒絶と受け取られたらしい。
廉佑は肩を落とした。

「迷惑かもしれないとは思ったんだけど、まだはっきり『迷惑だ』とは言われてなかったから」

「……何の話ですか?」

「電話、こなかった」

「電話?」
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