市ヶ谷さんの視線が私を通り過ぎ、閉じられたドアの方へ行く。
「可愛い人だね。早く会いたくて仕方ないんだろう」
 何のことを言っているのだろう、と空気を読めていない私に、市ヶ谷さんは教えてくれた。

「聞かなかった? 彼女、黒河美羽さんは、社長の奥さんなんだよ。間もなく、産休に入る準備をしてるところなんだ。あと二ヶ月かな」
「そうなんですか」

 黒河、という名字だし、言われてみればお腹がふっくらしていたような気もする。
 緊張して自分で精一杯だったから、そこまで目がいかなかった。
 そしたら、副社長からさっそくお叱りの一言。

「秘書は、そういうところも見ていないとね。補佐的な役割をするだけじゃなく、機敏にならないと」
「はい。申し訳ありません。とっても緊張していて……」
 弾かれたように私は、背筋をピンと伸ばす。すると市ヶ谷さんは笑った。

「ああ、君を叱りたくて言ったわけじゃないから、そう委縮しないで。すぐにそうなれということじゃないよ。社長秘書の彼女も、最初は何も分からなかった。社長の側にいて変わっていったんだよ。君にも、僕のことを知ることから、はじめてもらえると嬉しい」

「お聞きしてもよろしいでしょうか。なぜ、新人の私を?」
「君のモチベーションが上がるという理由なら、教えてあげてもいいけど。別の理由を欲しがるなら、言わない」

 試すように市ヶ谷さんは言って、私に近づく。彼が一歩近づく度に、私の視線はゆっくりと上になって、立派な喉仏が見えるぐらいまで近くなる。
 初めて出逢った時に感じたあの香りがした。




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