気持ちは、伝わらない(仮)
実に医師らしい医師
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8月7日の夜。榊久司は自宅マンションのバルコニーの柵にもたれて一人、缶ビールを飲んでいた。マンションすぐ側の公道では常時車が走っているので、わりと騒々しい。

 ……人間は一体どこへ行くのだろう。

 榊はぼんやりとテールランプを見ながら思考した。

 意識して部屋の中をちらりと見た。若い女はベッドの上で疲労と眠気に負け、まだ意識をなくしている。

 視線を戻して、溜息をつく。今日は夜勤明けの緊急手術でどっと疲れたが、重症の入院患者も今は容体が安定しているし、今日は自宅のベッドで朝まで寝られるだろう。

 桜美院病院、外科医。

 よく聞かれるが、医師だからといって、死に慣れることはない。いや、その言い方は少し違うか。性格には、慣れることを恐れている、か。死は常に恐れるものでなければいけない。それが医師の務めでもある。

 榊は缶を大きく傾けた。そして、思考回路を変更する。

「榊先生って、びっくりするほどわがままですね」

 そう言ったのは樋口阿佐子。なぜ彼女はこんなことを口走ったのだったか、今は思い出せない。

 榊はタバコの箱から最後の一本を出すと、空箱をくしゃりと潰し、少し開けたガラス戸から室内にぽいと捨てた。

 そして、フェラーリのライターで火をつける。

 そもそも榊は、他人にこだわる人間ではない。今ベッドにいる女だって、悪くはなかった、というだけだ。

「付き合ってる人、いたんですか」

 病院の仮眠室で寝る前にだらだらと話しかけてくるのが趣味のナースが、先日こんな質問をふっかけてきた。

「そうだよ」

 ナースは「本当に?」と目を大きくして再確認をする。だが榊は何も答えなかった。こういう人間はとてもうっとうしい。ある程度の予想をして質問をしているはずなのに、まるで予想外のような答えが出たかのような、大げさなリアクションをするやつが。

分かっていることを聞くな、とまた腹が立つ。もちろんその時はそのまま眠った。

 言いたくないことは、言わない。それが榊の性質である。相手には冷たいとく言われるが、特に気にしたことはない。言いたくなくても、言わなければいけないことは言うし、それくらいの分別はあるつもりだからだ。

 そう、小さなころから榊はそういう性質だった。

よくある医者一家の次男として産まれ、言葉の通り、何不自由なく過ごしてきた。祖父が一台で小児総合病院を立ち上げだが、若くして急死。その後を急いで埋めるように、一人娘、つまり榊の母は父と結婚をし、父は婿養子となり、病院を継いだ。そして生まれたのが、姉、榊、弟の3人である。小さなころは、3人とも仲が良かった。だがそれは、どの家族でも同じことだろう。

 学校に入る前までは、年の功よろしく、姉が中心となり、ままごとをよくさせられた。父親役は榊、息子役は弟。母親役の姉は、弟に無理やりおむつをはかせ、赤ちゃん役を強行していた。小さいといってもおむつが十分に恥ずかしい弟は、それはもうふてくされていたが、誰も姉を止めようとはしなかった。

 そんな姉も弟も今では医者である。家を継ぐのは小児科に向いている弟だろうが、榊にはそんなことはどうでもよかった。

 ただたまに、医者という職業に目覚めなければ自分は何になっていただろうと思う。小さいころからそれを聞かれると三兄弟そろって医者と答えることに、不思議を感じなかったのは何故だろうか、と。

だが、よく考えても、事実、それ以外になにたいものなどなかった。それが幸いして今の自分があるのも確かだ。

 しかし、もし。全く違う家庭環境の中で育っていたなら、自分はどうなっていただろう。実は何度そう自問しても、医学関係としか思いつかない。ただ、病院には行かなかったかもしれない。父親を見ていたので、何となく診察医に落ち着いたが、今考えれば、診察よりも研究の方が好きだ。一つのことに専門的に取り組めるタイプだと思う。だから、大学の医学部に残っていたか、どこかの研究所にでも入っていたか。

 ビールを一口飲んで、遠くの繁華街のネオンを目にし、溜息を吐く。

 若き天才ホスト、一成夕貴を思い出したからだ。祖父の代からのクライアント樋口一家の長女樋口阿佐子女史にべったりで、こちらを随分目の敵にしている。

だがその精神がなんとなく分かるので、榊は内心、一成が嫌いではなかった。第一、彼は頭がいい。

 榊は他人を評価するのが嫌いだが、その日はアルコールにまかせて続きをと考えた。

 香月愛。現在恋人である女。2年前の、出会った時はまだ17だったか。全身に鳥肌が立つような、身震いがするほどの美しい少女であった。香月愛のすべては相変わらず建材し続けている。非の打ちどころがない。

 なのに、何故自分は彼女を手放そうとしているのか……。

 榊は短くなったタバコをようやく灰皿の上で消した。

「キャハハハハハ、もうやめてよぉ」

 マンションの下から女の大きな声がするので覗いてみると、声色通りの茶髪の女がスーツの男に寄りかかりながらこちらに歩いてきていた。

「ねえねえねえ、やっぱ行こうよ、夕ちゃん」

 榊は目をこらした。

「もう遅いから、ね?」

 一成夕貴。あの男は間違いなく、一成だ。

 気付けば榊は、一成がマンションに入り、そして出て車に乗り込むまでをずっと目で追っていた。ナンバーワンホストは客を送った帰りだろうか、青いジャガーに乗り込み、やがてマンションを出ていく。

 榊は空き缶と灰皿を手にとると、室内へ戻るガラス戸に手をかけた。

ブブー!

ドンっ!
 
大きな音の方を向いた。

 自分の目が見開いているのが分かる。

 一瞬の出来事。

 青いジャガーはマンションから出た直後、対向車線からはみ出た車によって正面衝突を起こした。

 ジャガーの前はかなりへこんでいる。

 榊はすぐに戸をスライドさせ、大股で部屋をよぎり書斎に置いてある樋口邸専用往診セットを持ってすぐに外に出た。

 そのまま廊下を走る。マンションエレベータが運よく止まっていたのが幸いだった。

現場には後続車から出て来たのか、すでに人だかができていて、大声で「医者です!」と叫びながら人の波をぬった。

「久司!!!!」

 聞き覚えのある声にドキリと心臓が痛いくらいに鳴る。

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