more than words

雨が、降っていた。街灯が窓ににじんで、後ろに過ぎていく。ぽつりぽつりと思い出したように通りすぎる対向車。前を走っていた車は少し前に横道に入り、どこまでもまっすぐ伸びる田舎道には他に車はない。
 単調なワイパーの音。夜半過ぎのカーラジオからは、時代遅れの洋楽が延々と流れていて、眠気を誘う。巻き舌の、下手な英語交じりのDJ。私は欠伸をかみ殺して、惰性で吸っていた煙草を押しつぶした。CDでも聴こう。そう思って、手を伸ばす。派手なヘビメタでも聴けば、目が覚めるかもしれない。その時。
 不意にラジオから流れ出したその曲を聞いて、手が止まった。心臓が、震える。アクセルを踏みつける足が緩んで、私は慌ててバックミラーを見た。大丈夫。後ろにも車はいない。
 始めの数音。それだけで、判る。聴き慣れた、だけどここ数年は全く聴いていない、懐かしいイントロ。柔らかな、アコースティックギターの音色。ギターの腹を叩くような独特の奏法。そして甘いテノールのハーモニー。
 泣きたくなる程、懐かしい音楽。そんな曲を聴くと、過去がフィードバックしてくる。あれは、何年前だろう。五年、いや、八年か。初めて彼に会ったとき、私はまだティーンだったから。

 “More than word”。それがその曲のタイトル。その曲が好きだった彼は、アマチュアバンドのベーシストだった。私の友達の彼であったお調子者のギタリストに紹介されて、私たちは知り合った。茶色がかった長い髪。まだ少年染みた華奢な手足。うつむきがちにぼそぼそと、彼は名前だけを名乗った。世話焼きの友人に無理やり連れて来られたというのが、ありありと判った。待ち合わせた喫茶店で、話すのは専らギタリストの方で、当の彼はぼんやりと窓の外を眺めながら煙草を吸っていた。こりゃ駄目だ、つき合えないわ、というのが、私の第一印象。
 それでも私たちは一年つきあった。私がまだ学生の頃、お金がない私たちのデートは、必ずどちらかの安アパートで、彼は大概ベースを抱えていた。まるで女の子を抱き寄せるように、彼はその楽器を抱え、コードを押さえたり、低く音を奏でたりしていた。だけど正直言って、私には彼の音楽は判らなかった。つえっぺりんとか、すとーんずだとか、そんなのは、私にとってただのうるさい音の連続に過ぎなかった。その上、ベースときたら、ギターやシンセのようにメロディーがあるわけでも、ソロがあるわけでもない。その低い音を聴きながら、私はただ寝そべって本を読んでいた。そんな私たちの付き合いは、まるで異星人の交流のようだったかもしれない。彼にとっても、私の言う太宰や漱石なんてのは、外国語にしか聞こえなかっただろう。
「うるさい音楽は嫌いなの」
 傲慢にそう言う私を困ったような目見て、彼はいくつか私の好きそうな曲を選んでテープを作ってくれた。大体がアコースティックのギターとテノールの、静かな音楽。その中で取り分け私が好きだったのが、前述の曲だった。
「これ、好き。ね、この人の、もっと他の曲はないの?」
 その曲だけをテープに入れて、何度も繰り返し聴いていると、彼は申しわけなさそうに首を振った。
「この人たちは、本当はもっとうるさい曲を作る人たちなんだ。君が好きそうなのは、これだけだよ」
「そうなの」
 がっかりとする私をあやすように、彼はあまり手にしないアコースティックをもって、耳でコピーしたその曲を奏でてくれた。柔らかなその音色は、まるで空気に溶け込むようで、私は本物よりもうっとりと聞きほれた。
「ね、歌ってよ」
 何度もせがむと、彼は仕方なさそうに低い声で歌ってくれた。じっと耳を澄まさないと、聞こえない程微かな低い声。決してうまくはなかったけれど、私はそうして彼の歌を聴くのが好きだった。雨の昼下がり、おんぼろアパートに二人きり。それは幻想のような時間だった。

 短大を卒業し、父の見えざる手によって就職した私は、慣れないスーツとパンプスで都心の銀行に勤めることになった。毎朝の殺人的なラッシュ。愛想笑いと、数えすぎてもはや魅力も感じない札束。十五分で弁当をかきこみ、その途中ですら店から呼ばれれば駆けつける。定時に退社できることはほとんどなく、土日さえ社内の行事でつぶれてしまう。幻想とはまるでかけ離れた現実の生活。アパートに帰れば、ぐったりと死体のように眠る毎日が始まった。
 丁度その頃、彼のバンドは解散し、ギタリストはちゃっかりと商社に就職して、私の友達と結婚した。だけど彼は相変わらず、バイトをしながら、色々なバンドの助っ人のようなことをして生活していた。だから、それは当たり前のことだったのだと、今では思う。まるで出来損ないの三文小説のようなすれ違い。もっぱら夜のバイトにでる彼と、日中は勤めに出る私。たまに会えても、私の仕事の愚痴は夢の世界の住人の彼には届かない。
「結婚したいな」
 口癖のように呟く私に、彼は困ったように目を伏せた。私は別に彼に結婚を強要していたわけではなかった。彼に結婚出来る、生活力があるわけがないということは判っていた。彼と結婚したいわけではなく、ただその生活から逃げ出したかった。それだけだ。だけどその言葉は、彼を追い詰めた。
 人気のまばらな喫茶店。流れる古い洋楽。私と彼は互いに視線を合わせることもなく、ただぼんやりと窓の外を見ていた。手を伸ばせば、届く距離。テーブルを挟んだその距離が、地の果てのように遠く感じた。少しずつ、会う度ごとに、私たちは離れていった。彼は淡い瞳で外を流れる車のテールランプを眺め、その姿はまるで別れの言葉を捜しているように思えた。
「仕事を捜そうかと思ってる」
 ある日、私はそんな彼の唐突な言葉に、久しぶりで彼の顔を見た。妙に疲れた様子の彼は私と視線を合わせずに淡々とその言葉をくり返した。
「仕事を、捜そうと思ってるんだ」
 煙草を指に挟んだまま鬱陶しそうに長い髪をかきあげて、彼はようやく私を見た。私はそんな彼と視線を合わせることに耐えられず、窓の外を眺めるふりをした。仕事帰りのスーツ姿の私と、学生の時そのままの彼の姿が暗い窓に映っていた。知らなかった。私は乾いた笑い声を漏らした。私たちは、何て、不似合いなんだろう。
「仕事? 髪を切って、スーツを着て? ちゃんと定時に起きて、満員電車に揺られて?」
 冷たい皮肉な声で私は言って、最後に残酷につけたした。
「ベースを捨てて?」
 すると彼は傷ついたように、目を伏せた。
 何て、不似合いなんだろう。私はまた思って、喉の奥で笑った。そうして彼は私と結婚するのだろうか。子供を作り、平凡な暮らしをするのだろうか。私のために。涙が出そうだった。だって、私はそんなものを望まない。そんなのは、彼じゃない。どうしてこうなったのだろうか。どうして、こんなに離れてしまったのだろうか。
 ベースと私とどちらを選ぶの、なんて、私は聞いたことがなかった。ベースと答えられるのが怖かったわけではない。多分、聞けば優しい彼は偽りの返事を寄越すだろう。私、と。嘘でも私を選んでほしくはなかった。私なんて、たかが女じゃないか。彼はいつもでも夢の住人のように、いつまでも歌っていて欲しかった。現実なんて、見て欲しくなかった。
「私の、為に?」
 私はゆっくりと微笑んだ。彼が言葉に詰まる。何もかもを捨てると、言うのだろうか。捨てられると、言うのだろうか。私の為に。
 そんなのは、もう彼じゃない。だけど今の彼とも、私はもうつき合えない。そんなことは、判っていた。もう、大分前から、判っていた。
 私は優しく微笑んで、彼を見つめた。そして。
「捨てるなら、捨てれば? どのみち、もう私はあなたとは会わないから」
「え……?」
 私の言葉に、彼はきょとんと私を見た。
「それ、どういう……?」
「つまりね、さようなら、ってこと」
 にっこり笑って、ちらちらっと手を振ってみせると、彼は一瞬笑いだしそうに顔を歪めた。だけど、そのまま真顔になった。手にした煙草をひねり潰し、彼は聞いた。
「本気?」
 まっすぐな視線が痛かった。私はそれでも笑っていた。
「勿論」
 私はテーブルの冷めた紅茶を飲み干すと、小銭を数えてテーブルに広げて、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃ、さようなら」
 今、唐突に考えついたことではなった。ずっと考えていた。私たちは、もうおしまいだと。それは多分彼もそう考えていたのだと思う。お互いに、嫌いになったわけではなかった。だけど私は変わり、彼は変わらなかった。私は彼を縛りたくなかったし、彼に縛られたくもなかった。
 だけど彼の顔は、もう見られなかった。そのまま出口に向かう。その時。
「小夜子」
 後ろから、そっと名前を呼ばれた。何百回も呼ばれた声そのままで。私は、振り向かなかった。立ち止まったままで、彼の言葉を待った。流れていたはずの洋楽も、客の声も、何も聞こえなかった。責めるだろうか、恨むだろうか。だけど彼の声は、不思議にいつもの通りだった。何の感情も、そこには含まれていなかった。
「……さようなら」
 それで、終わりだった。

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