more than words

 金曜の夜、僕は嫌々勝則の家を訪ねた。勝則の家族は奥さんの静と五才を頭に娘が三人。女ばかりだ。
「どれでも好きなのを嫁にやるぞ」
 この間うまれたという一番下の子供を抱えながら、勝則は笑った。
「そうそう、小夜子、覚えてる?」
 勝則を嗜めてから、思い出したようにいきなり静が言い出した。僕は驚いて、彼女を見返した。そういえば小夜子は静の友達だった。僕は曖昧に頷いた。
「この間、結婚したわよ。結婚したい、したい、って言っていた割に遅かったわよね。だけど、あの時小夜子と結婚していたら、恭ちゃんだって今頃パパになっていてもおかしくなかったのにね」
 そう静に言われ、苦笑する。自分でも、想像できない。全く考えなかったわけではなかったけど、もう今となっては想像もできない。
 勝則は父親の顔で、ちょろちょろと動き回る子供たちを軽くあしらって、子供部屋に押し込む。ちょっとごめんなさいね、と静は言って、閉めた襖の向こうから微かな歌声が聞こえる。
 もしあの時小夜子と結婚していたら、本当に僕もこういう風に生活出来ていたのだろうか。だけど僕にはそういう未来を想像することができなかった。目を凝らしても、そういうビジョンは見えてこない。幼い頃に両親に教え込まれた崩壊された家族の像しか、見えない。
 子供たちを寝かしつけに行ったまま、静は戻ってこない。多分一緒に寝ついてしまったのだろうと、勝則が笑う。うるさいのがいないうちに、飲もうと、酒豪の彼が酒をすすめる。僕が持ってきたボトルがみるみる空になった。
 酔っぱらった勝則は、会社の話をする。上司が云々。取引先の課長が云々。まるで僕とは世界が違う。満足な相づちすら打てない僕に、そんな繰り言を言って楽しいのだろうか。
「楽しかったよな、高校の時は」
 彼はやがて、そう言ってうっとりと笑った。だけどその思い出を共有したはずの僕には、記憶が薄れていて、僕は曖昧に笑った。楽しかった、だろうか。生まれつき赤茶けた髪を理由に、不良のレッテルを張られ、生活指導の先生に追い回された。殴られたので、殴り返したら、停学を食らって、家に帰ったら父親にも殴られた。思い出と言えば、そんなものばかりが残っているけど。
「お前は昔から生き方が不器用だった。だから、何だか放っておけないんだよ。お前は、俺や店長のことをお節介で鬱陶しい奴だ、位に思ってるんだろうけど」
 そう言って、勝則はくすくすと笑った。見透かされているようで、居心地が悪い。僕は視線を合わせないようにして、グラスを空けた。
「下手な振り方して女に階段からつき落とされてたり、寝取られたとか言う男に殴られたりしてるし、行方不明になった挙句に東北でバイクでこけて死にかけてるし」
 バイクでふらりと出かけた旅先で、轢き逃げされたことがある。勝弘が言うのはその時のことだった。ただ轢かれたというより、引っかけられたという状態で、路肩の雪だまりに飛ばされた僕が凍死寸前で発見されたのは翌朝の事だった。肺炎で一週間意識不明。それが丁度父親の一周忌の頃だったので、店長は今でも絶対わざとこけたのだと主張している。
「本当に、お前、気をつけないと長生きしないぞ。高校の時から怪我ばかりして、おまけに……」
 けらけらと笑いながら、僕の大して楽しくもない過去を肴にしていた勝則が不意に言葉を切った。多分、素面なら避けて通っていた話題。勝則は、気まずげに黙り込んだ。
「おまけに、何? 父親に殺されかけるし?」
「ごめん。そんなこと、言うつもりじゃ……」
 身体を小さくして謝る勝則に、僕は笑いかけた。今更。
 母親がいなくなってから酒に溺れだした父は、よく僕を殴った。酒を取り上げようとした僕を、酒瓶で殴りつけたこともある。完全にアル中だった。酒の所為で仕事を失うことになった夜、彼は何もかもお前の所為だと言って僕の首をしめた。その時僕は高校を卒業する前で、もう体格的には父親より勝っていた筈なのに、何故か抵抗すらできなかった。ずっと昔、母の所業について黙っていた罪悪感があったのかもしれない。すんでのところで近所の人にに救われ、父親はそのまま病院に入った。そしてそこで四年生きて、そのまま死んだ。僕は一度も見舞いに行かなかった。
「死んだ、って聞いたとき、心底ほっとした。これで解放された、って思った。……薄情だな」
「そんなこと……」
 勝則はうつむいて、仕方ないよと呟いた。善良な彼は、他人のことでこんなにも傷ついた顔をする。しんと沈黙が降りる。いつもそうだ。僕は人を傷つける。それならいっそ人の住まない地に行くか。そんなことも、できない癖に。結局、また戻ってしまう癖に。
 それでもやっぱり、どこかへ行ってしまいたいと、望んでしまうことで、また誰かを傷つけている。
「ごめん。帰るよ」
 気づいた時には、傍らの上着を引き寄せていた。
「だって、お前、そんなに飲んで……バイクだろ? 泊まっていけよ。俺、そのつもりで……。ほら、雨も降ってるし」
 確かに窓の外をみると、音も立てずに細かい雨が降っている。だけど、僕は立ち上がっていた。まだ真っ暗だけど、今から行けば始発に乗れる筈。
「歩いて帰るよ。バイクはまた取りにくるから。静さんによろしく言っておいて」
「だって……」
 勝則はまだぐずぐず言いながら、玄関までついてくる。大分酔っているらしく、足もとがふらついている。振り切るように扉を閉じると、急に地面が回った。無理やり持たされた傘を玄関のノブにかけておいて、雨の中を歩き出した。どうせ駅まで歩いてすぐだ。妙に雨に濡れてみたい気分だった。霧のような雨は、それでもすぐに全身にしっとりと染み込んだ。
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