more than words

 始発の次の電車に乗り込んで、シートに座り込むと、乗り換えて自分のアパートに戻るのが面倒臭くなった。ブラッセリーに行けば、眠れる。それとも。
 気がつくと、電車から降りて、無意識に改札を出ていた。その駅から歩いて五分で笙子さんのマンションに行ける。駅の自販機で買ったポカリを飲みながら、ふらふら歩く。冷たい雨が、気持ちよかった。このままどこまでも歩いていけそうな気さえ、していた。
 豪奢なマンションの下で、笙子さんの部屋の窓を眺めて、急に思い出した。昨日は金曜日だった。僕はとぼとぼとマンションの下の公園に戻った。時計を見れば、まだ七時前。休日の、それも雨の日に、ジョギングなんてしている酔狂な親父が胡散ぐさげにベンチに寝転がっている僕を眺めて去っていった。そのベンチからは、笙子さんの部屋の窓が見えた。窓には薄いベージュのカーテンが閉まっていて、その向こうには笙子さんと彼が眠っているはずだった。
 どうして、忘れていたのだろう。
 気が抜けて、急に酔いがひどくなった。地面が回って、起き上がることもできない。これから起き上がってブラッセリーに行くことを考えると、目まいがした。自分のアパートなんて、銀河系の彼方より遠い気がする。勝則につられてどれだけ飲んだか、考えなくても判る。自分の酒量は遥に越えていた。自覚したら、猛烈に吐き気がした。
 このままこんなところで死んでいたら、笙子さんは怒るだろうなと思って、少しおかしくなった。笙子さんはこの公園を気に入っている。毎朝目が覚めると真っ先にカーテンを開いて、この公園を見下ろしている。遊歩道と灌木、そしてわずかばかりの遊具。大しておもしろいところではない。だけど春にはミモザが花をつけ、ここは一面黄色に染まるらしい。だけど、今は秋。かさかさに乾いた葉が舞い落ちる。
 底無しの沼に沈み込んでいくような感覚。こんなところで、それも酔っぱらった状態で寝てはいけないと理性が叫ぶ。だけどもう指先さえ、動かない。前もこんなことがあった。あれは東北でバイクでこけたとき。引っかけられて路肩の雪だまりに飛ばされたので、怪我は大したことはなかった。車通りは少なかったけど、もっと目立つところまで這っていけばもっと早く誰かが見つけてくれたかもしれない。だけど、何もかもが、面倒臭かった。呼吸を続けることさえ。
 このままずるずると命果てるまで、眠り続けようか。それも一興かもしれない。そう、思って。
 夢を見ていた。幼いころの、夢。暖かい居間に父親がいて、母親がいて、笑っている。とろんと眠ってしまった僕を、父親が抱え上げる。仕方ない奴だな、と苦笑して。何故か心配そうに覗き込む母親に、父親が安心させるように微笑みかける。大丈夫。酔っぱらって眠っているだけだよ。二日酔いにはなるだろうけどね。
 ……え?
 夢じゃない。僕は慌てて起き上がり、猛烈な吐き気と頭痛に襲われて呻いた。
「ほら、気がついた」
 にっこりと微笑む見知らぬ紳士は、勿論僕の父親ではなかった。そして傍らで心配そうな顔をしているのは、笙子さんだった。周りを見れば、見慣れた笙子さんのマンションの一室で、ということは、この紳士は……。
 最悪だ。血の気が引いた。
「こら、一体君はどれだけ飲んだんだ? 笙子、水、持ってきてくれないか」
 紳士は慣れた様子で薬まで飲ませてくれて、僕をまた横たえさせた。そして一頻りアルコールについて説教を垂れた。僕はおとなしく傾聴し、彼は僕の正体を知っているわけじゃないのかもしれないと少しほっとした。笙子さんが弟とでも説明したのかもしれない。
「じゃ、僕はそろそろ帰るから。笙子はゆっくり看病しておあげ」
「ええ。本当にありがとう。助かったわ」
 笙子さんと彼が短いキスを交わすのを、見ないように枕に顔を埋めていると、傍らに気配を感じた。ふわりと頭を撫ぜる手がある。
「君のことをどう紹介したか、知っているかい?」
「……え?」
 ひそひそと殊更に秘密ごかして囁かれて、思わず僕が彼を見上げる。彼は苦笑して、鼻唄交じりに玄関で靴を磨く笙子さんを示した。
「猫を飼ってもいいか、って言ったんだよ。きれいな声で鳴く、毛並みのいい子を見つけたんだ、って。それが、君のことだったよ」
 僕は、困って笙子さんを見た。笙子さんらしいと言えば、笙子さんらしい。彼女は決して隠し事はしない。
「正直、いい気分はしなかったけどね。公園のベンチで寝てる姿を見た時に、笙子の気持ちが判った気がしたよ」
「抱き上げて、連れて帰りたくなるでしょ」
 いつの間にか、笙子さんが傍らに来て、ベッドに腰かけて彼を見上げて微笑んだ。私の猫なんだから、取らないでね、と冗談なのか本気なのか判らないいつもの調子で言う。彼は取り合わずに、苦笑した。
「アルコールも何でも、自分の分、というものがあるのだからね、それが判っていればそこそこ上手くやっていける筈だよ」
 彼はやわらかい声でそれだけ言うと、じゃあまた、と手を上げて帰っていった。
 去っていくがっしりとした背中を茫然と見送る。しばらくして戻ってきた笙子さんが、にっこりと笑った。
「彼、お医者様なの。言うことは説教臭いけど、格好良いでしょう?」
 屈託なく、そう言う。彼にもそんな風に、僕を紹介したのだろうか。笙子さんならやりかねない。
「僕のこと、いくつだと思ってるんだろう」
 ぽつんと呟くと、笙子さんは弾かれたように笑った。
「そういえば、年は言ってなかったわ。恭ちゃん童顔だから、大学生でもたらし込んでると思われたかしらね」
 自分だって童顔の癖に、笙子さんはそう言って笑った。
 そして、私、看病するの、得意なの。今日は何でも我儘言っていいわよ。と何故か嬉しそうに笙子さんが笑う。頭痛は酷いし、吐き気はするし、おまけに風邪まで引いたらしくて喉は痛いし、最悪な気分だけど、それでも喜々としてブラッセリーに電話して事の顛末を全部告げている笙子さんのやわらかな声を聞いていると、また店長に弱みを握られたな、と思いながら何故かほっとした。
 僕は自分の分というものを、まだ判っていなかったのかもしれない。実は、こういうのが、幸せというのかもしれない。
 勝則のようにはなれないけれど、きっと小夜子を幸せにすることもできなかったと思うけど。こういう風になら、僕も幸せになれるのかもしれない。
 電話を切って、笙子さんはいそいそと枕許に座り、そっと僕の額に冷たい手を当てて小首を傾げている。
「笙子さん」
「ん?」
 そっと呼びかけてみたものの、それから続く言葉が出ずに、僕は口ごもった。僕は何と言うつもりだったのだろう。礼を言うつもりだったのか。謝るつもりだったのか。それとも。
 こういう時の癖で握りしめた僕の手を、そっと包み込むように握って、笙子さんは鮮やかににっこりと笑った。
「ん、私も、愛してるわ」
 そう事もなげに言ってのけて、笙子さんはもうお眠りなさいと優しくキスをした。
 外はまだ冷たい雨が降っている。だけど部屋は暖かく、笙子さんが歌う透明な声が子守歌のように響いている。“More than words”
 言葉じゃなくても、言葉よりも、もっと伝わるものは、あるのかもしれない。
[END]
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