とてもじゃないが、主さまに口説かれた記憶などない。

時々思い出したように甘い言葉を吐くことはあれど、想いを口に乗せて饒舌に語ったことなど今まで無いといって等しい。


「雪ちゃんって意外と情熱的…。あ、こんなこと主さまに言うと怒られるから秘密にして下さいね」


相も変わらずひとりで地主神の元を訪れていた息吹は、ぺろっと舌を出して小さめに握ったおにぎりを地主神の宿る大きな石の前に置いた。

普段は屋敷の掃除くらいで身体を動かすことがないので、山を上り下りするのはいい運動になる。

それに地主神に話を聞いてもらえているようで心も軽くなるし、一石二鳥というものだ。


「恋文を貰ってときめくなんて人妻なのにいけないことですよね。でも雪ちゃんすごく嬉しいこと沢山言ってくれたし…。主さまも雪ちゃんを見習ってほしいな」


ひとしきり愚痴った後、からからに乾いている祠を竹筒に入れて運んできた水で洗ってやった。

森の中は大きな蝉の鳴き声が響き渡り、細長い小川には蛙が居たり、様々な生き物が暮らしている。

もう少し長居しようと思って草履を脱ぎ、祠の後方を流れている小川に脚を浸して額から滴り落ちる汗を手拭いで拭った。

祠の上は大木から垂れた瑞々しい葉が覆い被さるように垂れ下がっているので、暑い日差しを防いでくれている。

時々脚の指を魚が突くのでこそばゆくて笑い声を上げていると、祠の大きな石が淡い光を放ったが――息吹からは見えていなかった。


――その頃百鬼夜行から戻って来た主さまは、部屋に息吹が居ないことで不機嫌になり、出迎えに出て来た山姫に八つ当たりをした。


「息吹はまた地主神の元か」


「そうですよ。せっせとおにぎりを握って遠足気分で出て行きました。主さま…もうちょっと息吹を構ってやってもいいんじゃないですか?」


「…うるさい。お前に言われずともわかっている」


息吹が戻って来るまではふて寝でもしようと夫婦共同の部屋に入った主さまは、すぐさま何らかの異変に気が付いた。

山姫に悟られないように襖をさっと閉めて、思いきり眉根を絞って部屋の隅を睨みつける。



「…ここは俺と息吹の聖域だぞ…。何人たりともここへ踏み入ることは許さん」


「へえ、言うようになったじゃないの。息吹、ね…。それがお前の妻の名なわけね」


「胡蝶(こちょう)…」



緩やかな黒髪の巻き毛の女――

胡蝶は主さま愛用の煙管を噛み、妖艶に笑んでいた。

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ファンタジー  妖怪    男目線  切ない  溺愛  きゅんきゅん 

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