黒い恋人
本を開くと、彼の部屋の匂いがした。

ぎっしりと書かれた文字を指で上から下にそっとなぞる。
その指の動きに私は彼の背骨をそっとなぞった夜を思い出す。
もういない、もう存在しない彼。

わずかな月明かりに照らされた輪郭が、彼を部屋の闇から切り取り影絵のように浮かぶ。
影から受ける愛撫だけが、この夜の生を自覚させてくれる。
静かで優しく長い夜はどんなに触れ合っていても、朝になるとベッドには、数本の体毛と体液しか残らなかった。
彼が、私を呼吸させる。
私が彼を揺らす。

そうして、私たちは何も生産しないまま、ただ体を重ねて時間を消費していた。

その彼は、この世のどこにも存在しない。
たくさんの売れない小説を残して、真っ暗な夜の闇にダイブした。

指でなぞる私の名前は、彼が私に宛てた遺書だ。
全てが実名の創作は、彼の叫びであり作品だった。

小説の中の「晴美」は、「啓司」の一方的で情熱的な想いに、はっきりと気持ちを告げられずとうとう恋人を裏切る。
そして、恋人は自ら命を絶つ。絶望はしているが、同時に晴美への復讐を果たす希望を抱いて。
小説としてはありがちな、それだけの事。


私は啓司と過ごす今の日々に、何も不満はない。
不安も悲しみも忘れていられる。
明るい部屋で抱き締められて、目を閉じれば、オレンジの光の中だから。

だけど、その光の中でなぞるのはいつも、小説の中の彼の背中だ。
切り絵のように、くっきりとした彼の黒い影は私を責める。
拷問のような激しい愛撫と、全裸の肌中にとろりと垂れ落ちる言葉が焼きついて、痛い熱いと掻きむしるまで。

本を閉じると、司書が伏せ目がちに微笑んだ気がした。
いつも同じ本を、借りもせず読みに通う私をみて、司書だけが牧師のように許す。
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