ETERNAL CHILDREN 2 ~静かな夜明け~
10 それぞれの思い
ようやく眠りについたシイナの表情が、先程よりずっと穏やかなのを確かめると、フジオミは静かに寝室を出た。
リビングのソファに座り込むが、中断していた仕事を再開する気にはなれなかった。
少しだけ開けておいた寝室のドアを無意識に見る。
うなされでもしたら、すぐにでも起こせるよう閉めないでおいたのだ。
ざわめいた心を落ち着かせるには、時間が必要だった。
誰かが、自分の許可もなくシイナに触れた。
それも、クローンがだ。
「――」
信じられなかった。
だが、シイナの恐怖は紛れもなく本物だ。
生殖能力も欲求もないはずのクローンに襲われかけたのだ。
最初は真っ先に自分を疑ったのだろう。
怪我のない腕を凝視していたのは一度や二度ではない。
犯人でないのを確信し、触れるのを許しながら、近づこうとすると無意識に脅える。
感情の起伏をほとんど見せなかったシイナが、これほどに取り乱すのは、よほど恐ろしかったのだろう。
ここ最近のシイナの態度が、あらぬ妄執をかきたてたのか。
偶然にしてはできすぎのタイミングだ。
シイナの行動を知る者――身近にいる者だ。
クローンの内の、誰だ?
研究区の職員か。
あの倉庫で見かけた男、シロウか。
あのクローンは、何かが違うような気がする。
だから、シイナに近づけたくない。
しかし、怪しいと言うだけで、何の確証もない。
心証だけでは追求も処分もできない。
シイナの変化が、クローンの変化をもたらしたのなら、どのクローンでも疑い得るのだ。
シイナはもともと外見の美しさだけでなく人を惹きつける要素を持っていた。
数少ない女性体であっただけではない。
それは、シイナの疑いや恐れを知らぬ、好奇心溢れる天真爛漫な特質ゆえだった。
自分が傷つける前のシイナならば、誰もが彼女を愛し、関心を引きたいと願うだろう。
そう――それこそ、生殖能力を持たないクローンでさえ。
「――くそっ」
怒りが込み上げる。
シイナの感情を揺さぶるのは、いつも自分だった。
自分だけだったのだ。
それなのに、自分以外の誰かが彼女を傷つけ、揺さぶった。
それが、許せない。
愛しさと独占欲でどうにかなりそうだ。
だが、もう自分は何も気づいていなかった愚かな少年ではなくなっていた。
傷つけてでも縛りつけておきたかったかつての自分に気づいた今だからこそ、同じ過ちは繰り返さないと誓える。
大きく息をついて、フジオミはどうにか心を静めた。
もう十分傷つけたのだ。
これ以上は、絶対に傷つけない。
守ってみせる。
誰からも。
何からも。
言葉通り、フジオミは決してシイナを一人にはせず、安心感さえ与える距離を保って傍にいてくれた。
研究区の仕事部屋で、シイナはいつも通りの仕事を。
フジオミはやはり端末を持ち込んで、会議用の机の隅を借りて自分の仕事をこなす。
恐怖は日を追うごとに薄らいでいった。
守られていることが、それを確信することでシイナの中の恐怖や脅えを取り払っていく。
こんなに安らかに過ごすのは、何年ぶりだろう。
傷つく前の子供時代の自分に帰ったような気さえする。
あの頃のように、戻れるのか?
それも可能なような気さえした。
自分達の関係を壊したのは、結局意味のない生殖行為だったのだ。
フジオミはもう、自分に触れない。
意味のない、苦痛だけのセックスはしなくていい。
フジオミに素直に告白したことで、自分がどれだけあの行為をおぞましく感じていたか悟った。
道具のように扱われた日々は、終わったのだ。
フジオミを兄のように慕ってついて回っていたあの穏やかな日々に戻れるなら、それもいいのかもしれないと思い始めている自分に驚く。
それほどに、疲れていた。
全てを嫌悪しながら、生きていくことに。
マナを育てたのも、人類の滅亡を防ぐこともさることながら、結局は、フジオミの相手をするのが嫌だったからだ。
「――」
無意識に目がフジオミの姿を捜していた。
フジオミはシイナの視線に気づくと、安心させるように微笑む。
微笑みかけるフジオミに、微笑んで返せる。
こんな風に、お互いが距離を保って接していられれば、フジオミに嫌悪感を感じることもない。
それどころか、守られていることに安堵する。
あの資料倉庫での忌まわしい出来事も忘れられる気がした。
一人にならなければいい。
常にフジオミの傍にいれば、誰も自分に危害を加えることは出来ない。
その反面、都合のいい自分に嫌悪さえ覚える。
それは『愛』ではない。
不意に沸き上がる、感情。
愛していると言うフジオミ。
しかし愛などという感情は、自分にはない。
マナにさえ抱けなかった愛が、フジオミに感じるなど、どう考えても有り得ない。
求めるものと返せるものが違う自分達が、このまま穏やかに過ごしていくことが出来るのか?
つかえたような胸の痛みが戻ってくる。
愛せない自分が、愛について考えると、いつも苦しくなる。
ないものを無理に引き出そうとしているからか。
――わかって、博士。あたしユウが好きなの。彼を愛してるの。ユウじゃないと、だめなの。
不意に、養い子の言葉が甦る。
マナにはわかっていた。
愛するということがどんなことなのか。
ユウもわかっていた。
彼には生殖能力さえなかったのに。
自分と同じだったのに。
自分だけが、わかれない。
愛されているのに。
それを、わかっていながら、なお彼を愛し返せない自分は――
「どうしました、博士。気分でも悪いのですか?」
不意にかかる声に、シイナは我に返った。
目の前にいるのはシロウだった。
不思議そうな顔で自分を見つめている。
「シロウ――」
「先程から何回か声をかけたのですが、気づかなかったようですね。資料をお持ちしました」
「あ、ありがとう。少し考え事をしていたのよ」
ふとフジオミを見ると、彼も心配そうにこちらを見ていたが、頷いてみせると、安堵したように笑い、また端末に向かう。
シイナも資料に目を通し、必要事項にチェックを入れた。
「いいわ」
資料を返そうと顔を上げると、シロウがもの言いたげにこちらを見ていた。
「他の報告でも?」
シイナが問うと、
「僕から、提案があるのですが」
少し声を低めて、シロウが言った。
フジオミには聞こえないほどの声で。
「提案? 言いなさい」
許可を得ると、シロウはさらに声をひそめて告げた。
「クローニングを再開させたいのです。我々生殖能力のないクローンではなく、生殖能力のある女性体のクローニングを」
シイナは、シロウの言葉に驚いた。
「もう一度、ユカのクローニングをすると言うの――?」
自然と、シイナの声も低くなる。
「ええ。マナ=サカキがクローニングによって誕生して以降、ユカ=サカキのクローニングは行われていません」
「私達がしなかったとでも思うの? でも、駄目だったのよ。母胎がない限り、人工子宮でのクローニングで成功したことはないのよ」
「知っています。ですが、この十数年で僅かばかり技術は向上しました。人工子宮によるクローニングの過程での問題点も改良を施すことが出来ます。僕のこれまでの研究です。失敗したところで失うものはありません。ならば試してみる価値があるのでは?」
成功の確率は極めて少ない。
けれど、これが成功すれば、人類は滅亡を免れるのだ。
「――」
だが、フジオミはどう思う?
カタオカは?
今更クローニングを再開しても、意味はあるのか?
だが、何もしなければ、人類は確実に滅びるのだ。
自分達の世代で、そうなることだけは避けたかった。
新たなイヴの誕生。
それは抗いがたい誘惑だった。
この胸の痛みが、消えるかもしれないのだ。
フジオミを傷つけても、シイナはそれを選びたかった。
この苦しみから、逃れられるものなら。