花散里でもう一度
再会
その時私の世界から音が消え、目に映るもの全てが酷く緩慢に動いて見えた。

振り被った刃に射す篝火の光が刀身を煌めかせ、まるで細い繊月の様。
大きく見開かれた蛇の隻眼は赤かった。
銀の月は振り下ろされ、阿久の手の中にある刃と激しくぶつかり合い火花を散らす。

自分の息を飲んだその音に感覚が正常に戻る。

鍔迫り合い。
ギリギリと金属の擦れる不快な音が響き膠着状態に陥る。睨み合う二人の視線だけでも火花が散る様な苛烈な争いが見て取れる。
それを壊したのは蛇だ。
一度に仕留められなかった蛇が、握る刀身で力任せに阿久を突き飛ばし、阿久がよろめいた。

剥がされた爪、身体中の傷、体力の消耗。
阿久が今立って動いているのが奇跡のようなものだ。

だから、次に私が見るのは、また赤い色だと思った。

嫌だ、もうこれ以上見たく無い。
命の取り合いなんて真っ平御免だ。
お願いだ、誰か、止めてくれ。


「阿久!」

「ぐっ!」

思わず叫んだその名前と、同じ瞬間蛇から漏れ出た呻き声。

再度斬りかかった蛇だが、その刃は阿久には届いていない。
高い金属音を響かせた刀は、蛇の手を離れた。

「……なんだてめえ……」

取り落とした刃が地面に転がる。
それを拾いもせずに睨めつける蛇の視線を追った私が見たものは……






『嘘』

自分の目を疑った。
目を擦ってもう一度みた。
何度目を瞬いて見ても消えない影。
幻?

私が何年も、それこそ夢であってもいいからと切望した者の姿。

揺らめく松明の炎の光が、柔らかに風になびく栗色の髪を染める。
淡い炎の光を反射する翠掛かった灰色の瞳と、額に有るのは二本の角。

嘘では無かろうか、震える指で頬をつねる。
……ちゃんと痛い。
本当に、帰ってきてくれたの?






「煩い、人間風情が……。」

感情の読めない平坦な声でそう言った鬼は、手に有る得物を蛇に向けた。
一瞬見えた横顔、今は蛇の真正面に立つ為背後しか見えない。

酷く冷たく響いたその声に、一歩踏み出そうとしていた私の足が止まる。

蛇の刃を止めたのは奇妙な長い鉄の棒。
だが私はそれに見覚えがある。
私と別れて北に向かった夫の手の中にあった、その前は彼の実の兄の得物であった武器、棍。
一般的には木で作るものだそうだが、あれは鉄の塊だ、人が軽々振り回せる物では無い。

ヒュン……風切り音を立てて棍を振るい、蛇が地面に転がした刀を両断する。
鬼の手に有る武器がどれほどの物かをまざまざ見せつけられ、蛇が息を飲んだ。

「この馬鹿騒ぎをすぐさまやめろ。さもなければ……」

瞬間の出来事。
いつ動いたのかわからないほどの速さで蛇との距離を詰めると、蛇の首を掴み上げた。

鬼は蛇よりも頭一つ分は余裕で大きい。そのまま腕を上げれば、蛇は足が地につかず掴まれた首に全体重がかかる羽目になる。
あれでは息ができまい。
みるみる顔を青くする蛇に、口調を変えることなく言い放つ。

「殺すぞ。」

端的なその要求に誰もが反応出来ずにいる。
首を掴み上げる腕に爪を立てる蛇だが、しばらくすると力が入らなくなった腕をだらりと下げた。

屋敷にいる騰蛇の面々に向かい蛇の体を放り投げる。

「蛇、お頭!」

わらわらと蛇の周りに集まる男たちに一瞥をくれる。ただそれだけで後退り体を強張らせる男たち。

「二度とこの村に立ち入るな。……目障りだ。」

そうだろう。
人間と鬼。
両者の違いは明白だ。
あんなに死力を尽くして戦った阿久と蛇だが、その片方を赤子の腕を捻るが如くに落とした。
本能的に感じる怖れ、それは正しい。
人の力など鬼に比べれば微々たるものだ、天災とも言える災厄に人は口を閉ざし過ぎ去るのを待つのみ。

騰蛇の男達でさえ震えて役には立たなそうだ、村人達も同様。
いや、それ以上の怖れっぷりで遠巻きにしている。

鬼は棍を右手に持ち、私の前を素通りしていく。
私を見ることなく。
冷たく凍りついた表情は、微塵も動く事なく……
どうして、何も言ってくれないの。


「お頭!無茶だ!」

若い男の声があがり、そちらを見れば咳き込みながら体を起こす蛇、その手には刀が握られている。
遠巻きにしている村人達を見据える鬼に、背後から斬りかかる蛇。

すぐに意識を取り戻した蛇が、まさしく蛇のような執念を見せた。
しかし問答無用に背後から切りかかったにも拘らず、背中に目が付いているかのように剣尖を交わす鬼。

悔しげに歯噛みして恨言を絞り出す蛇の首には、夜目にもはっきりとわかる程の痣が首にべたりと付いている。
呼吸も荒く声も掠れた状態のまま、それでも気丈に顔を向け睨みつけた。

「お、まえ…何なんだ、いきなり、何の関係も…ないだろう!
ここで蝮に落とし前つけさせなきゃ、示しがつかねえ。騰蛇を抜けるだなどと寝言を抜かす奴らが湧いて出らぁ!」

阿久と対峙していたときと変わらない烈火の如くに吐き出された言葉は、曲がりなりにも悪党集団をまとめ上げる頭としての矜持からくる物だろうか。超えてはならない一線が有るのに違いない。

「確かに俺には何の関わりのない話だ。
だがお前らの騒ぎが煩くてな、わざわざ俺が出張った訳だが……
……お前の首を落とせば、この騒ぎ静まるのか?」

対する鬼の冷ややかさも変わらず、冴え冴えとした月の様な美しい顔には何の色も浮かばない。
その癖人の命を摘み取る事に何の躊躇も見せない、人への無関心が恐怖を煽る。

「上等だ!鬼が怖くて騰蛇のお頭なんざやってられるか‼︎」

「無駄な事を。」

心底どうでも良さそうに吐き捨てる鬼は、私の待っていた者の筈なのに、まるで知らない者の様でもあった。

「止めてくれ、茨木。……お願いだ。」

鬼の左腕には何かの絡繰が付いていた。
三本の鉤爪の様な形の絡繰が棍を握っている。
茨木の左腕は異母妹に切り落とされたのだ。
間違いじゃない。
目の前にいるのは、私が待ち続けていた人。


「………お前、こいつを。この鬼を知ってるのか?」

鬼を睨みながら私に蛇が問うてきた。
咄嗟に答えようとしたが喉が詰まった様に声が出ない。
……怯えた人々の目を思い出したから。

「……俺は知らぬ。茨木などと言う名ではないしな。
まあいい、興が削がれた。」

「なっ、逃げるのか!」

僅かに口元に笑みを浮かべた鬼は、まるで絵に描いたように美しい。

「勘違いするな。命拾いしたのだ、あの女に礼を言え。」

「ふざけるな‼︎騰蛇を舐めるな!」

今度こそ容赦無く振るわれた棍が蛇の右肩を強打した。受けようと引き上げた刀を軽くへし折り、そのまま肩にめり込む棍。あの鈍い音では骨が砕けたに違いない。

肩を抑え、獣の様に唸り声を上げ地べたを転げ回る蛇を冷ややかに見つめる鬼、東の空に昇った月は変わらず静謐さを湛えた横顔を静かに照らす。





「何で俺達を助けた。」

静かに問う阿久の声で我に帰る。

「言ったろう。俺は騒がしいのは好かん。山に居っても下界の様子は耳に入るからな。
お前達も肝に銘じておけ、今後要らぬ騒ぎを起こすでないぞ。」

ぐるりと村人たちを見渡すと、常人ではない跳躍力で軽々と母屋の屋根に飛び上がった鬼は、クリルと踵を返しそのまま姿を消した。


嘘だ、間違いなく茨木だ。
私の夫で、伊吹の父親だ。
なのに……
『知らぬ』と……
足元から力が抜ける。
崩れ落ちる体を支える両の手は、私の良く見知った者の腕。
あの人の物じゃない。

「伽耶!しっかりしろ!」

卑怯な私。
なぜあの時答えれなかった。

ああ、茨木………ごめん……
私は怖かったんだ。

あの怯えた人々の目を思い出したから。
あの怯えの元にある自分達とは違う異形への恐怖と憎悪。驚くほどに冷酷になれる人間の一面を知ってるから。

待つと誓ったのに、お前を裏切る羽目になった。





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