【完】『賀茂の流れに』

4 東へ

慶と萌々子はしばらく黙っていたが、

「何でエマちゃん、こっちに来たんだろうね」

「それが饗庭も分からんらしい」

小声で慶は答えた。

その頃。

別室では翔一郎が警察官の質問を聞いていた。

「まず、こちらの封筒は、あなたの事務所の物ですか?」

黄色の封筒にはロゴと連絡先がある。

「確かにうちの事務所の封筒です」

「保護された葛城さんは、こちらの写真をこの封筒にしまって、大事そうに持っておられました」

ビニール袋に入った写真は、

「これ、ポラですね」

「ポラロイド、ですか?」

はい、と翔一郎は続け、

「プロが写真を撮影する前に、構図を確認する下書きみたいなときに、ポラ撮りってのをするんです」

「するとこれは、どなたが撮影したかとかってわかりますか?」

「撮ったのは自分です」

「そうでしたか」

いや実は、と警察官はファイルを開き、

「葛城さんが保護されたときの状況なんですが、まず市内のホテルに強引に高校生の女性を引っ張り込む男を見た、という通報がありまして」

パトカーが急行すると、部屋で下着姿で椅子に縛られているエマが見つかった…というのである。

「男は強姦未遂の現行犯で緊急逮捕になったんですが、葛城さんの保護者というのが、所在が分からないんです」

それで所持品を確認するとブレザーのポケットから、封筒入りのポラが出てきた…という趣旨の説明であった。

「それがあなたの写真事務所の住所でしたので、確認させていただきました」

「それで彼女は?」

「今は市内の病院で、念のため入院してますよ」

「そうやったんか…」

ホッとしたのか、関西弁に戻った。

「で、葛城さんとのご関係は?」

「…恋人です」

「それでは、身元引き受け人ということでよろしいですか?」

「大丈夫です」

ではこちらの書類に名前と住所と電話をお願いします──と手続きが済むと、翔一郎はロビーに戻ってきた。



警察署を出ると三人は、教えてもらった山下町の病院に向かった。

三階のエマがいる部屋に入った。

エマは眠っている。

「…帰るか」

すると、

「…誰?」

エマが目をこすりながら起き上がった。

「…何で、翔くんがいるの?!」

エマは驚きですっかり目が覚めたらしい。

「…心配したで」

起き上がったエマを翔一郎は、離すまいとばかりに強く抱き締めた。

「翔くん、恥ずかしいって」

エマは少しバタバタした。

が。

すぐ異変に気づいた。

無言でプルプル震えながら、翔一郎が嗚咽を漏らしているのである。

「…珍しいな、饗庭が泣くのは」

こいつ身内の葬式でも泣いたことないねんで──と慶は笑わせようとしたがダメであった。

何か小さな声で翔一郎はつぶやいている。

よく聞き取ると、

「かんにんやで、かんにんやで…かんにんやで」

ずっと繰り返しているのである。

「翔くん、何で謝るの?」

「おれが腑甲斐ないばっかりに…かんにんやで」

エマは少し苦しくなってきたらしく、

「翔くん…苦しいってば」

ようやく翔一郎は腕を少しゆるめた。

「あのね翔くん」

エマは少し呼吸を整え、

「…あたしみたいな女と一緒にいたら、翔くんの写真の才能きっとダメになっちゃうって」

翔一郎はキッとエマを泣きはらした目で鋭く睨み付け、

「…エマはどこも行ったらあかん」

ずーっと、おれの隣におっとけ──というと、またきつく抱きすくめた。

「…だから苦しいって」

エマは初めて笑った。

「わかったって」

今度はエマが翔一郎の肩へ腕を回した。

「…饗庭、席おれ外すで」

慶は萌々子を促して部屋を出、廊下のベンチに腰を下ろした。

「何かラブラブだよね」

「あいつら似合いのコンビやな」

「うちらは?」

「そんなん、似合いに決まっとるやないかい」

この日、慶はようやく安堵の表情を浮かべることができた。



翔一郎とエマが戻るまでの間に京都の町は、桜の季節を迎えようとしていた。

西陣に帰ってくると、

「お帰りなさい」

これからはカップルなんやねぇ…と例のソバージュの造形作家が、判じ物めいた言葉で出迎えた。

(みんな気づくもんなんやな)

今更ながら世間は狭いものだと、翔一郎はしみじみ感じたようである。

そういう風にして。

エマとのふたり暮らしは、ふたたび始まったのである。



久々に休暇が取れた。

「京都で花見をしたことがない」

というエマのために翔一郎が連れていったのは、松ヶ崎の疎水である。

まだ咲き始めであったが、白川や円山の公園と違ってこの辺りは、近所の家族連れぐらいしかいないような場所でもある。

「ごみごみしてへんほうが楽やん、なぁ」

平日の昼間だけに人出は少なく、川のほとりの桜も二分咲きぐらいである。

「こないだまで寒かったからなあ」

そういいながら、翔一郎もエマも実は満開より咲き始めの風情が好ましく感じられたらしい。

「あたし、桜は満開じゃないほうがいいな」

「なんで?」

「なんか、未来がある気がする」

「未来?」

不思議な言い回しである。

「これから咲きます、って感じが何か明るくてあたしは好きかな」

「そういう見方はしてへんかったなあ」

自身にはないエマの目線は、翔一郎には何とも新鮮な心地よさがあった。

「エマも写真一枚、こんど撮ってみ」

「あたしはいいって」

だってあたし翔くんの一番のファンだから、とエマは少し前にいたのを、笑顔になりながら振り返った。

(ホンマ無邪気やなぁ)

翔一郎はその可愛らしさが、様々なエマの表情の中でもっとも愛おしく感じられたのである。



五月を迎えた。

葵祭で洛北が賑やかな頃、一誠から急ぎの電話が一本入ってきたのである。

「例の写真やけど、東京の国際コンクールに出品決まったで」

そこで──と一誠はいい、

「タイトルつけとけ」

という事態に、なったのである。

が。

あのときエマが何を考えていたかなど、わかるよすがすらない。

とりあえず仮タイトルとして、

「恋する日々」

という簡単な題だけつけ、出品の手続きを翔一郎は取った。



何日かが、過ぎた。

西陣の翔一郎に今度は東京から、珍しく来客があったのである。

「はじめまして、こういう者ですが」

差し出された名刺は、芸能プロダクションの文字がある。

「実は饗庭先生が撮影されて、先だって国際コンクールにノミネートされた写真のモデルなんですが」

ぜひ当事務所でスカウトしたい、という。

「もちろん、ただとは申しません」

先生のマネジメント契約も一緒に、という。

しかし。

当のエマはスクーリングの日で、ここにはいない。

それを説明すると、

「ではあらためて後日」

と、辞去していったのであった。



入れ違いで帰ってきたエマに話をすると、

「あたし、モデルなんかやりたくない」

そういうと名刺にあった番号に手早く電話をかけ、

「あ、もしもし?」

と、翔一郎の目の前で断りの連絡を入れてしまったのである。

「…どうしてまた?!」

驚くばかりの翔一郎は目を丸くした。

「あたしのクラスに、読者モデルの子がいるんだけどさぁ」

前にエマが聞いた裏側、というのが相当えげつなかったらしい。

「だってさ、仕事取るために、不細工なプロデューサーとかとわざわざ寝なきゃなんないんだよ」

「援交みたいなもんなんやな」

うん、とエマは頷いた。

「これがね、翔くんに出逢う前だったなら、モデルを選んだかも知れない」

でも翔くん傷つくから、とエマは答えた。

「だって翔くんがホントは優しいのを、あたしは知ってるから」

「…エマらしいなあ」

まあエマがそれで後悔せんのやったらおれは構わんで──翔一郎は仕方なさ気な笑いを浮かべた。



梅雨の近づいたくもり空である。

岡崎の神宮の薪能──もちろん平安神宮である──が終わったばかりの頃、見たことのない封書が東京から翔一郎のもとに届いた。

「国際コンクールのご案内」

そういえば例の府庁で撮影したエマの写真を、一誠の推薦で出展していたのを思い出したのである。

(これ…下らなあかんのやろか東京まで)

招待日は六月十五日、とある。

ひとまず一誠には連絡かたがた報告も要るであろう、というので翔一郎は雨合羽を引っ掛け西陣を出た。

烏丸御池に着く頃には小雨がちである。

「お前のは入選したんやな」

そういうと一誠はタバコをふかした。

「そのコンクールな、海外からも取材が来るぐらいの展覧会なんやが」

初出展で入選とはなぁ…と一誠は自分のことのような口ぶりでいった。

「陣内先輩は?」

「おれは何回か入選しとるけど、あのレセプションの雰囲気がなぁ」

パーティー苦手やねん、と灰皿を引き寄せた。

「はぁ」

ちなみに翔一郎はタバコは吸わない。

「ま、いっぺん勉強するつもりで、東京に下ってみたらどうや」

「検討してみます」

翔一郎が帰り支度をする頃には、本降りであった。



六月十四日になった。

約三ヶ月ぶりに翔一郎とエマは、新幹線で雨の京都を発った。

例の横浜の一件以来である。

当初エマは留守番のつもりでいたが、

──パーティーはパートナー同伴でドレスコードがある。

という一文があって、エマと東上することとなったのである。

翔一郎もいつものヨレヨレの背広というわけにはゆかず、仕方なく階下のドイツ人の留学生の紹介で、裏寺町の古着屋で何日か前に都合二万円ばかりで揃えた、無紋の羽織袴を携えて出た。

あえて着物を選んだのは、

(一応、京都から出るわけやし)

このほうがえぇやろ、という単純なものであった。

着いたのは夕方である。

東京駅では萌々子が迎えてくれた。

「今日お慶ちゃん、仕事なんだ」

こういうときはうちみたいな学生のほうが自由が利くからさ…というと、

「ホテルが渋谷なら山手線のほうが楽だよね」

と、物慣れた歩調で山手線のホームに歩き出した。
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