りんどう珈琲丸
「たぶん自分の表現しているものが、自分の思っている以上に多くの人を救ってしまったんだ。でもきっと彼らにはそんなにたくさんの人生を背負えなかった。もともときっとそんなつもりじゃなかったんだよ。ただその自分の中のなにかをなんらかの形で外に出してしまわなくちゃ生きていられなかっただけなんだ。別に誰のことも救うつもりはなかったんだ。そしてそこには多くの賞賛と身におぼえのない失望があり、欲望や狡さにも出会うことになった。そういう人生をきっと彼らは望んでいなかったんだと思う」
「そっか。そういう人生も大変そうだね」
「きっと楽じゃない」
「ねえマスター。その27歳の音楽、ひとつだけ聴かせてよ」
「もう遅いから明日かけてやるよ。8時だ。今日は帰れ」
「ううん。今聴きたいの。1曲聴いたら帰るから、お願い」
 
 マスターが聞かせてくれたニルヴァーナというバンドのボーカルは、とっても神経質そうな声でうるさい歌を歌っていた。英語がよくわからないから、なんて言っているかわからないけど、とってもうるさかった。でもその音楽の中に、彼の声の向こうがわに、わたしの心にも少しだけ忍び込んでくる悲しみの叫びのようなものを、わたしは感じられた気がした。でも彼はもうこの世界にはいない。27歳で頭を銃で撃ち抜いて死んでしまった。でも彼は今、このりんどう珈琲でマスターとわたしにその神経症的な歌を歌って聴かせている。ある意味では生きている。生きるっていったいなんだろう? その引き金を引くとき、彼はなにを思っていたのだろう?
「ねえ。マスター、この歌うるさいね」
「ああ。うるさい。確かに」
「あのね、マスター。わたしはからっぽなんだ。なにも手に入れてないし、なにも失っていないの。わたしも、生きる意味がわからないんだ」
「いいか、柊」
 マスターはビールのグラスを置いて、カウンター越しにわたしの顔を見る。マスターがわたしのことを柊と呼ぶのははじめてのことだった。

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