りんどう珈琲丸
「やっぱり車いすが通れないと思って、お連れしなかったんですか?」
マスターは彼のカウンターに珈琲を置きながら言う。
「いや、今日は体調が優れないようで、散歩自体をしなかったんです」
「そうですか」
 珈琲を飲みながら、彼は話し始める。

「わたしがこの町で担当している須田さんは、70歳の男性です。でもどこも悪いところがないんです。ただ2年前に病気で奥様を亡くした頃から、認知症を発症しています。でもその周期は曖昧で、日常生活のほとんどは普通の状態なんです。でもやはり症状が出ているときは記憶が抜け落ちちゃったり、変なことを言ったり、近所を徘徊しちゃったりするんです。本当は施設に入るか、誰かがそばでケアしていなければいけない状態だと思います」
「でも一人暮らしを続けている…」
「……はい。本人が施設に入ることをかたくなに拒んでいます。家族は施設に入れたいのですが。彼はここから10分くらいのところにある家でひとりで暮らしています。わたしは週に2回か3回来て、買い物や洗濯をしたり、一緒に散歩をしたりしています。契約上は週に1回なんですけど、週に1回ではいろいろ足りません」
「家族はどうしているんですか?」
「40歳になる息子さんと、2歳下の妹さんがいます。うちの会社はその息子さんからの依頼で、訪問介護をしています」
「その息子さんたちはどうしているんですか?」
「妹さんは結婚して神奈川県の大磯に住んでいます。息子さんは東京で車のディーラーの店長をしています。お子さんも2人いて家も東京にあります。港区のタワーマンションです。小学校と中学校の子供の環境が変わるし、仕事も忙しいからここに戻ってこられないと。だからうちの会社に介護を依頼しているんです。そして家から出るときは車いすで散歩をするように言われています。須田さんがおかしなことをして近所の方に迷惑をかけるようなことがないようにと、心配されているんです。でも須田さんはそんなことはしません。でも会社がそう発注を受けている以上は、散歩のときは車いすに乗せなくちゃならないんです」
「そんなの本人が嫌がりませんか?」
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