りんどう珈琲丸
第4話
 美篶さんと最初に会ったのはりんどう珈琲だ。ときどきマスターは買い出しに出かけるために、わたしを置いて1人で出かけていく。もちろんそのときはお店のドアの看板はCLOSEにしていくのだけれど。
 わたしはその日も留守番で、ひとりで英語の勉強をしていた。カウンターに座って辞書を引きながら、明日の授業の予習。スピーカーから知らない音楽が流れている。珍しく日本の男の人。とても優しい声で歌ってる。でもわたしはそれが誰だかはわからない。ここにいると世界にはどれくらいの音楽があるのだろうと思う。そしてこれだけの音楽が世界にあるっていうことは、これだけの音楽が世界に必要なんだろうと思う。
 そのときドアがノックされる。ふつう人は喫茶店のドアをノックしない。開いていればそのままドアを開けて入ってくるし、閉まっていればそのまま帰っていくはずだ。でもわたしがそう考えている間に、もう一度ドアがノックされる。
「はい」
 わたしは立ち上がってドアを開ける。そこには女性が立っていた。メイクも服装も控えめな印象なのだけれど、よく見るととても整った顔をした美人だ。黒のスカートとタイトなジャケットが似合っている。でも明らかにこの町には不似合いだ。
「あの、胡桃沢さんはいますか?」
 胡桃沢というのがマスターの名前だということを思い出すのに少しだけ時間がかかる。わたしにとってマスターはいつもマスターだから、胡桃沢さんと呼ばれただけで、なんだか急に遠くの人に感じて、すこしだけそわそわした気持ちになる。
「すいません。マスターは今ちょっと買い出しに出ていて留守なんです。あの、どちらさまですか?」
「あっ、ごめんなさい。わたしは高橋って言います。胡桃沢さんの会社の後輩です」
「会社の後輩…ですか?」
「はい。後輩って言っても、胡桃沢さんはもう3年も前に辞めてしまったから後輩もなにもないかもしれないですけど」


 マスターがここをはじめる前に東京で働いていたことは知っていた。でもわたしにはどうしても会社でスーツを着てネクタイを締めて働いているマスターの姿が想像できない。わたしにとってマスターは、いつでもマスターだ。でもこの人はマスターじゃないマスターを知っている。むしろマスターであるマスターを知らないんだ。
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