りんどう珈琲丸
「また負けか。全然だめだね。勝ったって聞いたことないや。マスター今日も打てなかったの?」
「だからこうして練習してんだろ」
 マスターは少しだけ不機嫌そうに言う。日曜日の朝の草野球にこんなに夢中になっているマスターをわたしはなんだかかわいいと思う。37歳の大人に向かってかわいいって言うのも変だけど、やっぱり男の人っていいなあって思う。


「マスター」
 吉川さんが口を開く。
「ん?」
「マスターがいま素振りしているのはどこのコースですか?」
「どこのコース?」
「真ん中です」
「真ん中?」
「はい。でも試合ではボールはほとんど真ん中に来ません。だから素振りするとき、いちばん打席でボールが来るコースを振っておいた方がいいです」
「ボールが来るコース?」
「はい。アウトローです」
「…外角低め」
「そうです。ピッチャーって小学生位からそう教えられてるから。染み付いてるんです」
 
 マスターはまた素振りをする。やっぱり腰が抜けて変なフォームだ。


「ねえマスター、そろそろお店の準備しないと間に合わないよ。先に入ってるね」
 体が少し冷えてきたので、わたしは立ち上がる。

「吉川昼飯食ってくだろ? ひいは飯食ったのか?」
「うん。朝ごはん食べてきた」
 吉川さんは立ち上がるとマスターのバットを受け取って一度だけ素振りをする。吉川さんは左利きだ。彼がバットを振るとビュンと風を切り裂くようなものすごい音がした。マスターがバットを振ったときにする音とは明らかに違う。


 お店に入るとマスターはエプロンを巻いてカウンターに入る。わたしもエプロンを巻いて、店内の掃除をはじめる。日曜日のりんどう珈琲の、いつもの朝。マスターがステレオの前でCDを選んでいる。そして1枚のCDを選ぶとステレオにセットする。
 ステレオから音楽が流れる。ギターの轟音とピアノの音が合わさった、聴いたことのない音楽。


「モグワイですか?」
 吉川さんがマスターに言う。
「ああ」
 マスターが答える。
 マスターが選んだモグワイっていうバンドの音楽は、いつまでたっても歌が始まらない。わたしはしばらくしてやっとこのバンドの音楽には歌がないんだってことに気がつく。でもそう思って聴いてみると、この音楽に歌は必要ないような気がする。


「吉川さんは歌がない音楽が好きなんですか?」
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