少女遍歴
あられもないわ


お兄様の帰りをいつも放課後に家で待っていました。

お兄様は高校生で、わたしはまだ、小学校に通っていまして。

家に帰ってきては飲みかけのジュースもそこそこに、
午後の気温があまりに心地よい春だったので、
思わず眠りこけてしまうのです。 

お兄様はもうすぐ帰ってくるかしら、高校はもう終わるころかしら。

つらつら、と。つらつら、と。

ぼんやりとした頭の中でいつもそんなことを思ってお兄様を待っていました。

けれども最近のお兄様はお母様のおつくりになった晩御飯も食べずに、
夜、もうわたしがお布団に入ろうかというような時間に帰ってくるのです。

それでいて、どこかご機嫌なのです。

普段から柔和なご様子だったとおもいますが、
それ以上に普段とは違う何かがあります。

「お兄様、お帰りなさいませ」

お兄様の学校制服のYシャツの裾をつかみながら、顔を見上げると、
ニッコリと笑って「ただいま」と私の頭を手でぽんぽんと撫でて頂いて。

お父様とお母様はそのお兄様のご様子について、
あまり宜しくはないと思っているようですが、
お兄様はそれを知っていたとしても、知らないフリをしていました。

直接的にお兄様が怒られているのも見たことがありません。

では、何故お兄様はいつも上機嫌で帰ってこられるのでしょう。

その理由に触れるようなことはわたしの口からは言えず、
それとなくお母様に聞いたことがあったのですが、

「センセイよ」

と、ため息混じりに答えられました。

「センセイ?」

聞き返しても、お母様はそっぽを向いて、夜ご飯の支度を続けるばかりです。

後にも先にも、もう同じようなやり取りはできないし、
聞けないのだと幼いながらに思わされたのでした。






ある日の放課後。

学校の帰り、わたしはいつも一人で帰ります。

本当はみんなで帰りなさいとの先生の教えがありますが、
どうもわたしには一緒に帰りたいと思うおともだちがいないどころか、
帰り道もやはりみんなとは違う方向なのです。

先生も言葉だけ言って、後は気にしていない様子でしたので、
わたしはもう3年間それを続けています。

またわたしは一人で家に帰ってきては、お母様の出すおやつに手をつけ、
やっぱり日なたがとても心地よいので眠ってしまうと、
目が覚めた時、日は良い具合に暮れているのです。

ですがこの日の目覚めは驚きによるものでした。

お父様の怒鳴り声で目を覚まし、
私ははっとして寝ていた自室を飛び出しました。

リビングには立ったままのお父様とお兄様の姿があり、
お母様はその横のテーブルに座りながら、
じっと二人の様子を見つめているのです。

わたしはキィとそっと開いたリビングへ続く扉に身体を隠し、
僅かに顔だけのぞかせて皆を見守ることにしたのです。

「これが続くようなら、もう今後一切家には入れるものか。お前は騙されているんだ」

お父様がひどく険しい顔でお兄様を睨みつけていました。

お兄様はそれに怯える様子もなく、無表情で俯くばかり。

「何とか言ったらどうなんだ」

お父様は今までに見たことないような剣幕でお兄様を捲し立てています。

お父様がここまで怒りを露わにするなんて。

私は驚きでその場から目が離せませんでした。

静まり返る室内。

暫くはお互いに沈黙が続いていました。

わたしはじっと、じぃっとお二人の様子を見つめ、息を殺していました。

するとこれまで黙っていたお兄様はゆっくり微かに口を開いて、
小さな声で何かを言っていたのです。

わたしの距離ではよく聞こえませんでしたが、
お母様は息をのむように驚いた顔を見せ、
お父様はたちまち顔が赤くなり怒りを頂点を迎えるようでした。

「お前ッ-----」

突如お兄様の胸倉を掴み、
一発拳を握りしめお兄様のお顔に殴りかかろうとしたその時、
わたしには何が起こったのか、しばらくの間理解できませんでした。

膝をつくように、そして目の前のお兄様にもたれ掛るように倒れ込んだお父様。

それを見たお母様の悲鳴と悲鳴と悲鳴。

真っ赤なものが床に流れ出て絨毯に染みて、
それでもお兄様はただ立ち尽くしていました。

わたしは何も考えることができなくなり、
ただただお兄様から視線が離せずにいました。

そこでふとお兄様が振り返りこちらに気付いたのです。

「あっ」

という声がわたしから零れたと思います。

手が震えて、目もそらせず、身体が石のように固まっているわたしに、
お兄様はいつものように柔和に笑うのです。

「だいじょうぶだよ」

やさしいやさしいいつものお兄様の声でした。
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