【続】三十路で初恋、仕切り直します。

結婚余話(1)夫婦になる日


世の女から言わせれば、男なんてみんなマザコンらしい。

そしてご他聞に漏れず、自分もそう言われる一人なんだろう。


しあわせな家庭といってまずイメージするのは、母の後ろ姿だ。

子供の頃、父の店で仕込みを手伝っていた母は、いつも子供たちの下校時間に合わせて一度家に帰ってきた。それから大急ぎで夕飯の支度を始め、それが終わるとまたすぐに店に戻っていく。それが毎日のことで、いつもそんなに相手にしてもらえなかった。

けれど不思議とさびしいとは思わなかった。

台所に立つ母がいつもたのしそうだったからだ。よくフライパン片手に調子はずれな歌を歌っていて、遊びに来ている幼馴染の泰菜もそんな母の歌につられるようにハミングしていて、その声を聴いているのが好きだった。


父がいて、兄がいて、幼馴染の泰菜もいて、その頃は存命だった祖母もいて、いつも家にはあったかい雰囲気があった。その動力の中心にいるのは間違いなく母だった。母はどんなに忙しくてもいつでもきびきびと働き、明るく子供の様に豪快に笑っていた。


帰宅すると必ずその母に笑顔で出迎えてもらえることが子供だった自分にとって何よりうれしいことで、未だにその光景が自分にとって幸せな家庭の象徴だった。







二日ぶりに帰宅すると、泰菜がソファで眠っていた。

いつものように玄関先まで出迎えにこなかったから、もしかしてと思い足音を殺してリビングのドアを開けると、泰菜はソファに身を預けて眠ってしまっていた。

起こそうかと思い、でもすぐに思いとどまった。ソファでうたた寝なんて冷えそうだし節々が痛くなってしまいそうだけど、余程疲れが溜まっているのだろうと思ってこのまま少し寝かせてやりたくなり、タオルケットを持ってきて肩に掛けてやった。

するとそのわずかな感触に意識を揺り動かされたのか、泰菜はちいさく呻きながらうっすら目を開けた。


「………れ………法資…………?」
「悪い、起こしたみたいだな」

泰菜はぼんやりとした顔で見上げてきてしばらく視線をうつろにさせていたけれど、急にはっと目を開けると勢いよく立ち上がった。

「やだ、ごめんなさい。帰ってたんだ」
「今さっきな、帰ったばっかだ」
「お仕事お疲れさま、今すぐ支度するから。ご飯食べる?お風呂が先がいい?………あッ!!」


悲鳴のような声を上げるから何事かと思っていると、泰菜は申し訳なさそうに眉をハの字に下げる。


「ごめんね、お風呂の支度まだ出来てないの………今用意するから」
「いいって。今日はシャワーで済ますから」

バタバタとバスルームに直行しようとする泰菜を引き留めると、泰菜はますますいたたまれなさそうな顔をする。

「でも昨日もオフィスに詰めっぱなしだったなら、せめて家でゆっくりお風呂にでも浸からないと疲れ取れないでしょ?」
「いや、本当にいいから。それよりおまえも座ってろよ。飯くらい冷蔵庫の中漁って適当に済ますから。なんかお前、俺より疲れた顔してないか?」


忙しくて帰宅が不規則になりがちだけど、泰菜が眠ってしまっていたことはこれが初めてだった。いつもはどんな時間に帰宅しても、ろくに連絡さえできなかったときも、泰菜は文句も言わずに起きて待っていてくれた。

泰菜にそうしろと言ったことはない。

ただ言葉にして伝えなくても十分なくらいに、自分が密かに家庭というものに何を求めているのか、妻と言う存在に何を期待しているのか、幼い頃から一緒に過ごしてきた泰菜は分かりすぎるくらいに分かってしまっているのだろう。


冷蔵庫を開ければすぐに食事が摂れるようにと、いつもホーローの保存容器につくりおきの惣菜が用意されている。洗濯ものが溜まっていることなんてないし、部屋はいつ帰ってもきれいに整えられている。バスルームのタイルが湯垢でピンク色になってることも、泰菜と暮らし始めてからはなかった。

新婚生活は一人暮らしだった頃とは比べ物にならないくらい快適だ。もともと家庭的な女だろうとは思っていたけれど、泰菜は想像以上によく出来た嫁だった。


--------なのになぜか、最近はそれを素直に喜べないでいる自分がいる。

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