君恋ふる
act.8


 私が持っていないもの。

 私が一番求めていたもの。

 人懐っこく笑う君はとても眩しかった。


「せーんせ、手ぇ止まってるよ。何、分かんないの?」

「そ……んなわけないでしょ。私を誰だと思ってるの」


 脳内を過ぎった姿を追い払い、私は公式を更に優しく噛み砕いて書き込む。

 それを熱心に覗き込む姿は可愛くも見えるけれど、さっきの小馬鹿にした態度によってプラマイゼロ。


「さ、これ使って解きなさい。終わったら帰っていいわ」

「やりぃ! こんなん楽勝だってー」

「当然でしょ。私が教えてるんだから」

「せんせーそういうとこがダメなんだって。せっかく綺麗めな顔してんだからさーもっと笑ってさー」

「私は昔から笑うのは苦手なの。無駄口はいいからさっさと解きなさい」

「あ、じゃあ俺がレクチャーしてあげよーか!?」

「人の話を聞いてる? さっさと解きなさい」

「くっ…なかなかしぶといじゃねぇか…」

「君もね。そのしぶとさ、この問題に活かしてくれる?」

「んじゃ、俺がこれ解けたら笑顔の練習な!」

「………はぁ」


 思わず溜め息が零れた。疲れる。

 私とは正反対の、まだ十五の男の子に振り回されるなんて…。


「せんせーはさ、何で笑うの苦手なの?」

「お口を閉じてお勉強出来ないの、君は」

「静かだとやる気下がるー」

「手を動かして聞けるとは思えないけど」

「大丈夫! 俺そういうのめっちゃ得意!」


 確かに手は動いている。間違えそうな危うさはあるけれど、解へ辿り着くにはそう遠くはない。

 補習とはいえ、やれば出来る子ではあるのよね。


「………。兄のせいよ、」


 答える気になったのは、私でも不思議だった。

 誰にも話した事のない昔話。

 時効だから?

 私のことをよく知らない相手だから?

 どれが理由かは分からないけど、耳を傾けながら数式を解いていく彼を見ていると自然と口が開いた。


「兄も無愛想な人だった。でも、優しかったのよ。顔に似合わず。私は無愛想なまま人に優しく出来なかったから、羨ましいやら妬ましいやらよく分からない感情を抱いていたわ」


 窓の外へ目を遣る。

 もうほとんど落ちている夕日は私を過去へと誘った。

 稚拙で、懐かしいあの頃へと。


「兄が優しくしてくれればくれるほど苛立って、つらく当たったの、私。馬鹿みたいに張り合って、兄を相手にするととても冷静ではいられなかった。数学もね、兄の苦手科目だったお陰で究められたのよ」


 心が落ち着く日はなかった。

 兄を見る度、心がざわめきたって、どうしようもなかった。

 ―――だけど。


「何でこんなに苛立つのか分からなくて、苦しかった。でも、あるときにフッと気付いたの。……だから、離れようって思って県外の大学へ逃げたの、私」


 それから私の心はようやく落ち着いた。

 たまに実家を恋しく思ったけれど、帰らないと宣言した手前、帰れなかった。

 今もまだ、帰れずにいる。

 多分……私はまだ逃げ続けている。向き合いたくないと心のどこかで思っている。

 兄と再び会う事を恐れている。


「せんせー、もしかして兄貴の事……」

「内緒ね。誰にも話した事ないのよ。ま、軽々しく話せる事でもないんだけど」

「自分で言うのもなんだけどさ、俺、口堅い方じゃ…」

「そう言う人ほど堅いものよ」

「すんごいプレッシャー…」

「あら、解けたみたいね。正解よ」

「マジで! よっしゃー!」

「お疲れ様」

「せんせーの教え方が良かったからな!」

「よく言うわ」


 思わず口許を緩めると、彼は目を丸くした。


「やっぱせんせー、笑わなくてもいいかも」

「失礼ね。ちょっと口許緩めただけじゃない。“笑う”に入らないわよ」

「や、その、ちょっとニコッとしただけですっげー威力だから、そのくらいがいい。何かもったいねー」

「………えっ?」


 不意を突かれて、相手が中学生だって事も忘れて私は赤面してしまった。

 眩しいくらいの笑顔を向けられたらもう、手遅れな気がした。


 ――愛してたから、苦しかった。

 私が長年解けなかった答えは今も胸に深く沈んだまま。


*To next*
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