神崎さんはそこにいた。
神崎さんはいつも僕の隣にいた。

明日なんて何処にもない。気付けば身体だけは大きくなって中身は何も変わらないままだ。頭の上でクルクルと何処にも行けない魚の群れが回っているよう。時計の針と同じで僕の思考は何時までも巡り続ける。何もない、何処にもない、変われない。心に響く汚い声はどれも自分を戒めていくような消極的な言葉ばかり。道を行く犬ですら前を向いて歩くというのにどうして僕は前を向くことすら出来ないのだろうか。
こうしていつも思想は低迷する。終わりの見えない自問と繰り返す自答に呆れてどうでもよくなって。本能のままに布団に入り眠りにつく。その繰り返し。酷く疲れた。考えることも周りを見続ける事も。
明日は本当に来るのだろうか。いや、分かっているんだ。明日は何時だってちゃんと此処にあるんだ。残酷に、そして平等に僕ら全員に降り注いでくる。そうして光がカーテンの隙間から刺すように僕に理解させる。また同じ日々がはじまることを。





昔から僕は人の痛みって奴に鈍感だった。幼い頃に父親は母と離婚してそれから間もなく風の噂で父親は当時付き合っていた女性と交通事故で亡くなったと聞いた。それが理由な訳じゃない。特別な事でもないだろう。今の時代そういった家庭は山ほどある。でも僕は虐められていた。何故なのか、解らない。人の痛みを理解できないから、虐めの理由は謎のままだ。
中学に入ると周りの目が怖くなった。僕は小学校の頃のように虐められる事は無くなったが心無い言葉をかけられることも多かった。でもそれでよかった。その言葉だけなら言い返す事で何とでもなる。僕が悪いことをしているわけでもないし。それに何より僕は絵を描くことが大好きだった。勿論上手い訳では無いが絵を描いてる時は嫌なことも忘れられるような気がするから。
そう。それでよかった。誰とも話さずに終えるつもりだったんだ。でも確かに巡りあってしまったんだ。忘れられないクラスに。
三年四組に。

ザワザワと騒がしい。周りの男子は早速気の合う友達を見つけたようで仲良さげに話している。その目が僕を見て笑ってはいないだろうか。少し被害妄想気味な思考を打ち消すと黒板に貼られていた席順を確認して速やかに席を目指す。あまり人と関わろうとは思えない。どうせ話した所で僕と話したって誰も楽しくないだろうから。
でも、と疼くのは心の奥の自分。たまに抑えが効かなくなってしまうのが僕の悪い癖。最も悪いところなんていっぱいある。いつか直さないといけない事は分かっているけど…。
鞄を机に置くと隣の席がまだ空っぽだったのに気付いた。三年の初めだ。もしかしたら話し掛けられる事もあるかもしれない。印象、悪くならないと良いけど。
徐々に煩くなる教室。僕が悪い想像をしているうちに人が多くなってきた。後ろの方では何やらブチャっとした顔の男子が下衆な笑みを浮かべて数人と話している。聞くところによるとどうやらその数人組は小学校からの付き合いらしく慣れた人間と共に居るのが楽なのだろう。品のない汚い笑い声が響いている。
こういうやつらは苦手だ…。心の中でひっそりと呟いた。別に不良とかいう訳でも性格が悪そうな訳でも無いがこういう人達とは確実に合わない。本能で悟ってしまう。
どうでもいいか、なんて小さく付け足した時だった。カタンと隣から音がして見慣れた顔が隣に居た。
「神崎…さんだ。」
「おはよう、和樹。」
上品に頭を下げた彼女の名前は神崎帆乃。小学校の頃から虐められていた僕を差別することなく話し掛けてくれていた幼馴染みだ。それにしては僕の呼び方がいささか他人行儀な気もするがそれには理由がある。彼女が嫌がるのだ。「私、人から呼び方変えられるの嫌いなの。」と神崎さんが話してくれたのは知り合って間もない頃。小学三年の秋だったっけな。「昔に親友だった子が急に呼び方があだ名呼びになってね、その後その友達から言われたのよ。「別にアンタの事好きじゃないからどっか行って」ってね。」当時小学三年だとは思えない程に大人びた顔付きでそう言う神崎さんが何処と無く格好よく見えたのもあり、僕の頭にはその時の記憶が鮮明に残っている。だから未だに彼女を「帆乃。」と呼ぶことは許されないのだ。もしそう呼べば神崎さんは僕の事を嫌うだろう。
「和樹?アタシの顔に何か付いてる?」
どうやら昔の事を思い出していたら神崎さんの顔をじっと見詰めていたらしい。慌てて視線を外し、何でもないよ。と小さく呟く。その様子に大変嫌悪感を持ったようだ。けれど神崎さんは暫くこちらの様子を伺った後で急に目線を反らした。
「アンタが言いたくないなら別にいいわ。」
そういって神崎さんは背負っていたスクールバックを机に下ろして制服のポケットに入っていた携帯用のブラシで髪を解き始めた。長い黒髪がサラサラと揺れているのが美しい。
まったく…。僕より男前だな…。昔から1mmも変わらないサッパリとした性格に惚れ惚れとしながら彼女が女性からモテるのが解るような気がした。確かにこんな男前な性格の人だったら女であろうが関係なく憧れるものはあるのだろう。彼女と居ると自分が女々しいような気になってくる。否定は出来ないが。でも折角久し振りに話せた嬉しさに僕の口は開く。
「今年は同じクラスなんだね」
「そうね。」
「えっと…一年間宜しく!」
「宜しくしている暇があったら勉強しなさい。」
「………はい。」
「じゃあ早速、配られていた教科書にでも目を通す。以上。」
安易に神崎さんと話したのが悪かった。僕は教科書に目を通すという事を余儀なくされ頭が痛くなる。まあクラス替え早々に教科書を読んでるような奴に話し掛ける奴なんて居ない。神崎さんは僕が人と関わることを嫌がっている事を知っているからこういう事を言ってくれるんだろう。冷たい言葉の裏の彼女の優しさを噛み締めながら僕は教科書を取り出した。
教科書を読むフリをしながら教室の声に耳を傾ける。神崎さん曰く、「和樹は人を嫌っているようで実は一番人の事愛しているのよね」となるようだ。なかなか的を得た発言かもしれないと僕も思う。確かに本当に人が嫌いならこうして耳を傾ける事も無いからだ。
きっと僕はでしゃばりな性格なのだろう。本当は誰かに構って欲しいのに素直にそう言えない面倒臭い男だ。裏切られることを恐れて何も出来ずにいる。ありがちといえばそれで終わるけれど僕にとっては大問題。また同じような人間関係を繰り返すんだ。それさえも神崎さんに言わせれば「下を向きすぎて気持ち悪い」と一蹴されるのだが。
「あれ?」
ふと教科書を見ると1ページだけ真っ白になっていた所があった。これは先生に言って取り替えてもらわないといけない。教科書見といて良かった…。頭の中の自分がホッと肩を撫で下ろすのを感じながら隣に居る幼馴染みに声をかけることにした。やはりここは素直にお礼を言うべきだろう。
「神崎さん。」
「なに?」
「神崎さんが教科書に目を通すように言ってくれたおかげで教科書の印刷ミス見つけられた。ありがとう。」
「そう、それは良かったわ。」
僕がお礼を言うといつもと変わらない平坦な声で神崎さんは答えた。神崎さんにはいつもこうして助けられる。だから僕も彼女が好きなのだ。今回も彼女が教科書に目を通すように言わなければきっと発見出来ることは無かっただろう。本当に感謝だ。
彼女が居るならこの一年は案外楽しいものになるかもしれない。
なんだか僕は急にそう思った。思わざる得なかった。
それが僕の、「大沢和樹」の新たな人生の幕開けだった。

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