ハニーと吸血鬼(ヴァンパイア)

第7話

 甘やかなシルヴィ様の腕から逃れるのは、なかなかに至難の業だと思う。
 誰かに遮られでもしない限り、彼の思うがまま、エンドレスで可愛がられ続けてしまうから。
 何度も自分に言い聞かせるけど、どんなに彼が女性同士のように話せる相手(に、なりつつある)だからといって、決して女性だと錯覚してはいけない。
 言動が女性らしさ全開だったとしても、彼はまごう事なく男性なのだ。
 しかも人間ではなくヴァンパイア。
 軽く触れられている感覚なのに、抜け出せないようしっかり腕の中に閉じ込められてしまうのだ。
 肩から上を思う存分、触れていないところは少しもないくらいに唇でなぞられて、そろそろ羞恥心で死ねそうだと本気で思い始めた私を、彼は更に嬉々として撫でくり回す。
 そう、前髪や後ろ髪なら手で触れるのに、どうして肌は唇で触れ続けるんだろう。
 本当はもう少し血が必要なのかな、とも思ったけれど、彼は即座に私の思考を読んでそれを否定した。
「さっき貰った分で十分よ。あれ以上吸ったらきっと人格変わっちゃう」
 え?そんなに強烈なの?ちょっとショックかも。
 なんて口に出さずに落ち込みかけたら、クス、という彼の吐息が耳元をかすめて、そのまま耳たぶをカプリ。
「ひっ」
 咄嗟に肩をすくめて凄まじいくすぐったさにギュッと瞳を閉じる。
 その隙をシルヴィ様が逃すはずもなく、右の瞼にふわりと柔らかな唇が押し付けられた。
 もうっ、何かっていうとこうなんだから。
 顔を合わせてまだほんの数時間。
 少しずつシルヴィ様の事が分かり始めてきたくらいの状態で、もう何十回、いや、もしかして3桁いくんじゃないかしら?という程彼の口づけが落とされている。
 本当は早く着替えたいんですよ。
 でもシルヴィ様が放してくれないし、そもそも体一つで連れてこられているから着替えなんてないし…。
 一回家に帰らせていただけませんか?
 視線で訴えれば、キラッと光る鋭い視線で即却下された。
 言葉で言われなくても分かっちゃった自分が憎い。
「家に、っていうけど、もうハニーちゃんのおうちはここなのよ?帰りたいって言ってるのは「実家」のことでしょ?」
「じゃあ実家にか・・」
「えすわけないわよね」
「どうして!?」
「あのねぇ、アタシが何の用意もせずに愛しいアナタを迎えると思う?当然生活必需品やらアナタの好みを徹底リサーチした雑貨やら全部揃ってるわよ。喜んでくれたら嬉しいわぁ、って楽しんじゃった!もちろんアナタに似合いそうなドレスや小物もアタシのセンスで準備したわ。あわよくばアタシ色に染まってくれたらいいなー、なんて思いながらする買い物って最高ね!ただちょーっとごめんなさいねだったのは、お部屋のカーテンなの。ハニーちゃんの好みや雰囲気を考えたら細かく編んだレースのカーテンに、薄いパステルイエローの柔らかなカーテンがいいかしらって思ってたんだけど、アナタの寝室行ってびっくりしたわ!ハニーちゃん、アナタ意外とアラビアンが好きなの?っていうより東洋系が好き?おしゃれだけど渋い色で落ち着きすぎてて、あらっ、アタシやらかしちゃった?って思っちゃったのよぅ」
 ほとんど一息で一気に言い切った。
 まるで機関銃。
 ここまでよく喋ってくれる男性は私の人生に一度も現れたことがありません。
 びっくりというか、呆気にとられるというか、むしろ感心しちゃうというか。
「そういう所、ハニーちゃんてたまにものすごく冷静よね」
「というよりこれが「異文化交流」か、とショックを受けているのかも」
「面白いこと言うわね。なるほどねぇ、異文化ねぇ。そうよねぇ。ハニーちゃんの実家って郊外だものね。都市から離れたところにあるから、結構貴族文化から隔離されてた感じ?でもアナタ社交界デビューはしてるわよね。それ以降社交場には行ってるの?」
「え?」
「何その鳩が豆鉄砲くらったような顔。可愛いけど「何それ?」みたいな反応じゃないの。ヤダ、ちょっと、行ってないとか言わないわよね?」
 ぐいっと美しすぎるお顔が迫ってきた。
 何だろう、得体の知れない怖さを感じる。
 社交界デビュー、それは貴族令嬢なら誰もが経験する華々しい世界へ踏み出す儀式…というか、洗礼?
 幼い頃から都市部に住んで貴族社会や文化に慣れ親しんでいれば、それもこれから一人前のレディとして羽ばたくんだわっ!と高揚感いっぱいで臨めるんだろうけど、私にとってはさして面白いものでも素晴らしいものでもなかった。
 あちらこちらで男女が互いを品定めし、気に入った相手がいればねっとりした視線を絡め合いながら、多分に裏を含んだ奇妙な駆け引きを楽しんだり、女性同士で罵り合い足を引っ張り合い、かと思えば貼り付けたお面みたいな笑顔を浮かべてからくり時計のように次から次へと相手を変えて踊り明かす。
 そんな事のどこに楽しみや喜びを見出せばいいのか全く分からなかった私はデビュー以降お父様も積極的にパーティーの誘いを受ける人ではなかったから、それをいいことに一度も参加していないし、デビューの時も結局早々に興味のない場所からそっと離れて、唯一褒められる庭園に逃げ込んだのだ。
 ちょうどよく隅の方に建てられていた東屋まで行き、そこからまん丸の月を見上げたっけ。
 頬を撫でる風が涼しくて心地よかったなぁ。
 しかも果実のように爽やかな甘い香りもしていて、一体どの花から香るのかと探したりもした。
「そういう事、か。だからホールで見つけられなかったんだわ」
「ん?」
 見つけられなかった、って何を?と問い返そうと思ったら、それを遮るように
「それで、その花は見つかったの?」
 と彼は問いかけてきた。
「いいえ、見つかりませんでした。でも代わりに優しい目をした黒猫に会いました。滑らかな毛並みにスラリとした手脚で、とっても上品なのに人懐っこくて。抱き上げたらずっと私の頬に頬ずりしてくれていたんです」
「心地よかったのよ。抗えないほど強い力で惹きつけられて、堪らなく触れたくなったの」
「え?」
「近付いてはっきりと確信したわ。この子がアタシの女神なんだ、って」
 どういう、事?
「こうして触れるのも、柔らかな毛並みで頬ずりするのも、どっちも素敵ね」
 シルヴィ様の長く骨ばった指と温かな手のひらが、私の頬を包み込む。
 自然と顔を上げるよう促されて、私は数センチも離れていない場所で彼の瞳をみつめた。
 不思議と心の奥から全てを包み込まれているような安心感に満たされる。
 なんだろう、この感覚…あったかい…。
「黒猫のアタシも可愛かったでしょ?」
「えっ?まさか、じゃああの時の猫は、シルヴィ様!?」
「そ。ホントはもっと人間らしい再会をして、アタシに恋してもらおうと思ってたのよ?でもあらゆる舞踏会やパーティーに参加しても、アナタとちっとも会えなくて。鍵(キー)として覚醒する前のアナタの香りは近付けば強く分かる程度のものだったから、一度遠く離れてしまうと国中から探し当てるのは難しすぎた。もう一度近くで会えたら絶対見つけ出せる自信があったのに、結局覚醒する昨夜まで待つしかなくなっちゃった」
「ヴァンパイアにも出来ない事、あるんだ」
 急に親近感が湧いてきて、ちょっとだけ嬉しい。
 思わず笑みを浮かべたらシルヴィ様は触れている方の手のお親指で、私の頬を何度か撫でた。
「あるわよ、たくさん。魔族だからって何でも出来るわけじゃないの。アタシはまだただのヴァンパイアだから」
「ただの、って?」
「言ったでしょう?鍵(キー)を手に入れた者が次期魔王になる、って。なるわよ、アタシ。今のままだって一対一なら負ける気しないけど、魔界中の魔族や魔物を相手にするとなったら多勢に無勢。でも魔王ならそうはいかない。数に負けることなんて有り得ないの。いくらだってかかってきやがれ、ってなもんよ」
「公爵様なのに、言葉がお下品ですよ?」
 ムダにキラキラしている外見からは想像もつかないような、力強くて頼もしい啖呵をきるシルヴィ様は俄然闘志を燃やしているようです。
 そのギャップさえ魅力を増大させちゃう。
 シルヴィ様って…うん、やっぱり素敵な人だと思う。
「ハニー、ちゃん?」
 ううん、これは内緒。
 聞こえてると思うけど、内緒。ってことにしてね、シルヴィ様。
 貴方が素敵な人だってことはよく分かったわ。
 もちろん外見的なことだけを見て感じたわけじゃない。
 シルヴィ様って心がとーっても広くて深いんだわ、まるで大陸の向こうに広がる太平洋みたいに。
 私一人が飛び込んだところでどうってことない。
 ちょっと水面が揺れるだけ。
 ゆっくり身を浸していく私を、まるごと受け入れて包み込んでくれちゃう。
 溺れないように酸素までちゃんと用意してくれて。
 必要ならきっと海面へ浮かび上がらせてもくれるし、不安に駆られないよう逃げ場所も作ってくれる。
 甘やかし上手な、とっても優しい人。
「…ちょっと、買い被りすぎよ」
「でも本当だもの」
「う、嬉しいけど、けど、ちゃんと魔王になりたい理由、聞かなくていいの?アナタを利用しようとしてるだけかもしれないわよ?」
「今更だわ。でも一応聞いておく。どうして貴方は魔王になりたいの?」
「そ、そん、そんなの決まってるじゃない」
 もじもじしながらシルヴィ様は言う。
 私は視線で先を促して、大人しく待ってみる。
 シルヴィ様はこれ以上ないほど頬を真っ赤に染め上げて、熱のこもった瞳で私を見つめた。
「ハニーちゃんとの生活を誰にも邪魔されたくないの。アタシ以外の男には指一本たりともハニーちゃんに触れさせたくない。ましてやアタシ以外の男に汚されて嘆き悲しむ姿なんて見たくない。大切にしたいのよ。アタシの側で絶対安心出来る居場所を作りたいの。それで、いつかは家族になって、二人の宝物もたくさん出来て、その全部を自分の力で守り抜きたいの。最大級の幸せを、何があっても守っていきたいの」
 それはまるでプロポーズの誓いの言葉みたいで。
 真っ直ぐに私の心の一番深いところまで響き渡る。
 どうやら私はその最大級の幸せの入口にいるみたい。
 シルヴィ様となら、現実に出来そうな気がする。
 こんなに真摯な想いを、ただ受け取るだけじゃ女がすたるわ。
「分かった。私、頑張ります」
「え?」
「シルヴィ様の隣に相応しい人間になれるように」
「ってことは…婚約、成立?」
「一応」
「ホント!?」
「その代わり、ちゃんと幸せにしてくださいね?」
「ッ、そんなの、もう、アタシ全力で頑張る!!愛してるわッ、ハニーちゃん!!」
 ガバリと抱きつかれるのはもう慣れた。
 そして愛情の証とも言える力いっぱいの抱擁も、ね。
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