クラッシュ・ラブ

丁寧に。かつ、迅速に。

そう言われたわけではないけど、それを求めてるはず、と心の中で気合いを入れる。
この単純な作業は、例えるなら“ぬりえ”のようなもの。
でも、ぬりえ以上の緊張感がある。小さな小さな箇所でも、はみ出してしまったら、全てを台無しにしてしまいそうで。

だから、慎重に。
わたしはゆっくりと縁を取って、ムラのないように、集中してベタ塗りをしていた。


「はは。ミキちゃん、すごい真剣」


少し経ってから、不意に声を掛けてきたのはカズくん。
顔を洗いに立ったのか、歯磨きか、トイレなのか。どの理由かはわからないけど、気付けば席を立ってわたしの横に来ていた。


「あ……うん。失敗出来ないし」
「ひとの原稿(仕事)預かるのって、緊張するよね」
「ものすごく!」
「はははっ。そんな感じ、すごい出てたよ、今」


わたしの向かいにしゃがみこんで笑うカズくん。あまりに可笑しそうに笑うから、ちょっと恥ずかしくなる。


「え? そ、そんなに?」
「うん。吸い込まれてた」


“吸い込まれる”。その言葉、ものすごい当てはまる。
テーブルの上の白い原稿に、全意識を持っていかれて、外界(まわり)の音とか、全てシャットダウンされてた。

ああ。こういうことかもしれない。

初めて、ユキセンセに近づけた気がした。
いつもいつも、「集中し過ぎる」とカズくんが言うくらいに没頭している、仕事中の彼に。


< 88 / 291 >

この作品をシェア

pagetop