Cross Over
記憶
目を覚ました日から一夜明け、診察室から戻った私はベッドの上で考え込んでいた。




不安そうな表情に、母のカラリとした声が向けられる。


『大丈夫よ、そんなに心配そうな顔しなくても。先生もおっしゃってたでしょ?事故の衝撃で一時的に記憶がとんでしまうことはよくあるって。徐々に思い出してくるはずだから、心配しないで自然に身を任せたほうがいいのよ。』


呑気な母を見つめながら心の中で反抗した。こっちはそう呑気には考えてはいられなかった。




体の痛みは昨日より少しマシになっていたが、体のことより頭を悩ませる問題が起きている。


自分の中に、思い出せない記憶があるなんて。


空白の記憶があることに恐怖さえ感じる。

道路へいきなり飛び出すなんて。

その時の自分は一体何を見たのか。

何を感じていたのか。

そして、母がいう『怜』という男性は一体誰なのか。




ここまで運んでくれて、つきっきりで看病までしてくれたということから、もしかすると恋人なのか?




『怜』という人物。そして、事故のこと。
その2点に関する記憶だけが自分の頭から穴が開いたように抜けてしまっている。





『怜くんのことは、あなたから聞いてはいたけど。お父さんもお母さんも、病院ではじめて怜くんに会って。あんなにしっかりした素敵な彼氏がいたなんて、もっと早く紹介してよ。』




嬉しそうに、そしてからかうような顔でこちらを見る母の言葉に確信した。






予想した通り、『怜』という男性は私の恋人であることは間違いないようだ。





『あんなに素敵な彼氏のこと思い出せないなんて。あら、でもそういえば…』



ふと、考えるように頬に手をあてて、

『彼どうしたのかしら?昨日、一度家に戻ると言って出て行ったっきり、戻ってきてないわねえ。』





母の言葉に、はっとした。




そういえば、病院にきてからつきっきりでいてくれたという彼が、昨日自分が目を覚ましてから病室には現れていない。
目を覚ましてから一日経っても、彼と会ってはいない。





『まあ、仕事が急に入ったのかもしれないし、またきっとそのうち来てくれるはずね。』




不安そうな表情で口数の少ない様子を心配してか、母が言葉を続ける。




『私たちが病院にかけつけた時、彼は頭を下げて、必死に謝っていてね。仕事はしばらく休みをもらうので、なごみさんの面倒を見させて頂けないでしょうか?って。必死に頭をさげるから、私もお父さんもその真っ直ぐな姿勢に心打たれちゃったのよ。』



母がその時を思い出しているように、クス、と微笑みながら言った。





ふと、テーブルに置かれたままの煙草とジッポに視線を移して問いかける。





『そこに置いてあるものは、その彼のもの?』




あぁ、と母が思い出したように、




『そういえば怜くん、煙草を吸いに病院の外に出てることがあったわ。数時間たまに自分の家に帰るだけで、それ以外ほとんどこの病室にいたようだもの。それなのにまったく、あなたは1週間も眠ったままなんだから。怜くんだって、外の空気に触れたくなるわよ。』





呆れたような笑みで母がこちらを見る。




やはりその忘れ物は彼のもの。
彼は煙草を吸う人、ということだけが確実にわかった。





『あんなに好青年で、しかもあんなにかっこいい彼がいて。お母さん羨ましいわ。』



ニヤニヤした目つきでこちらを見ながら、売店に行ってくるからと母は部屋を出て行った。






『…はぁ……。』


母が出て行ったのを見届けたあと、深いため息がもれた。


どうしてあんなにも呑気に考えていられるのか。

私は自分に空白の時があることが怖くて仕方ないのに。


どうしても、その時何が起きたのか、何が自分を突発的な行動に向かわせたのか知りたい。



そして、『怜』という彼のことも。



でも、



その彼が部屋に来てくれれば、
会って話しをすれば、きっと何か思い出せるはずだ。




彼はすぐ来るかもしれない。
母の話しからすれば、もしかしたら、今まさにその扉から、いつ入ってきてもおかしくはない。



彼と思われる人物が置いていったのであろう煙草とジッポがここにある。すぐ戻るつもりである証だろう。




彼に会って話しを聞こう。記憶がない自分に驚くかもしれないが、母がいうような人なのだとしたら、きっと自分を支えてくれるに違いない。




そう自分を落ち着かせ、まだ少し残る体の痛みをいたわるように、ベッドにゆっくりと横になった。





しかし__。



その次の日も、そのまた次の日も、1週間が経っても、






そのあと、彼が病室に現れることはなかった。




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