Le cafe d' AMOUR
喪服を着た彼の注文
カランカランと涼しげな音を立てて、ドアがゆっくりと開いた。手持ちぶさたで、暇をつぶすためにテーブルを磨いていた光子は、「いらっしゃいませ」と言いかけて、はっとした。


それは、近頃めっきりやせた体に、喪服をまとった彼だった。


いつもの時間に、いつもの新聞を持って、彼はやって来ると思っていた。今日も、何気ない日常の繰り返しだと思っていた。だが、平穏な日々は破られたのだった。


光子は、思わず震えそうになるのを必死に抑えながら、いつものように彼の傍に立った。


「いつものコーヒーを。今日は少しブランデーを多めに」


注文はほぼ習慣通りだった。だが、いつももの思わし気だった彼の声は、今日は何かから解放されたような、優しげな響きだった。光子は、注文を書き留めながら、ちらっと彼を見やった。


――年をとられたわね。でもそれは、私も同じなのだけど。


光子の目に映る彼は、きれいに櫛が入れられた白髪をたくわえている。昔は、もっと濃くて艶のある漆黒の髪だった。それが、徐々に絹糸のような白いものが増えて、今では目をひく品のよいロマンスグレーの紳士だ。しわも増えた。特に眉間にしわを寄せる癖があり、新聞を読みながら眉をひそめていたためか、鼻の上に波が寄ってしまっていた。老眼鏡の向こうに見える、やや細い目は、穏やかなひかりを放っていた。喪服をまとっているというのに。そして、そのような静かな様子は、彼を長年見守ってきた光子の記憶にはないものだった。



この人は、こんなにもゆるりと、私に話しかけるかのように優しい調子で注文することができたのだ。いつもだったら、壁につぶやくような言い方で、コーヒーを頼む人なのに


光子はそんなことを考えながら、注文をマスターに通した。マスターは、心配そうな視線を、自分の馴染み客に投げかけて、光子に小声で尋ねた。


「みっちゃんさん、あの人、今日は喪服だね。様子も違うし、どうかされたのかな」


このマスターは、いつも光子を「みっちゃんさん」と呼んでいた。光子が、彼の父親である、今は故人となった先代のマスターの元でウェイトレスを始めた頃から、まわらぬ舌で彼女を「みっちゃん」と呼んでいたのだが、大人になって気恥ずかしくなったらしく、不器用にも「さん」をつけることで、彼のささやかな悩みは一応の解決をみた。最初は笑っていた光子も、今ではその響きに慣れてしまっていた。


「そうですね。でも私たちは、見守ることしかできませんから」


光子は悲しかった。そして、マスターがコーヒーを淹れている間に、いつものブランデーとアルコールランプの用意をしながら、自分のしなびた手に視線を落とした。時の流れは、光子を確実に老いへと拉し去ったのだ。


光子は、世の女性たちとは違い、忍び寄り若さを奪っていく老いには比較的寛容だったが、彼の前にコーヒーを出す手だけには、格別の苦心をはらって手入れをしていた。しかし、手は年齢を隠さない。何しろ、彼女はもう五十歳を越しているのだ。仕方がないこととはいえ、彼女はやはりため息をついた。
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