ドミナントセブンスコードBm7
 案の定降り出してしまった雨に、小走りで店先まで避難する。
 中に入った途端襲うむわりとした湿気に七奈は顔をしかめた。
 迷路のような店内を目的もなく進む。頭痛は治まっていた。

 車が苦手だ。正しくは、車に乗るのが。酔う体質だから、と安本さんには話していた。本当は、違う。多分誰にも話すことはないだろうけれど。

 雨の来客でむせ返る空気から逃げるように二階へ上がる。底抜けに明るい店内BGMにかき消されるような、ひっそりとした音量でゲームコーナーがあった。
 自販機の置いてある入口わき、二つ並んだベンチの階段側の角に座る。

 ここからなら、やってきた安本さんたちが見えるだろう。

 壁に立てかけられた時計が五時半を指している。待ち合わせ時間は確か六時からだったはずだ。先ほどの雨で少し湿ってしまった髪を手ぐしで梳かす。
 一度トイレの鏡でちゃんと整えたほうがいいかもしれない、とゲームセンターの奥へ向き直ったところで、七奈はぎょっと一瞬固まった。

 奥側のベンチに、膝を抱えて誰かが寝ている。

 黒のパーカーとくたびれたチノパンのかたまりが、すうすうと寝息を立てている。足もとに若干くたっとなった黒のスニーカーが転がっていた。顔は見えないが、男性だろう。

 奥のトイレに向かうには、その前を通過しなければならない。先ほどとは違う種類の頭痛がしてきた。時計を見る。三十五分を回ろうとしていた。

「……」

 できるだけ遠巻きに避けながら、横を通り過ぎる。
 ちょうど真正面あたりでぐらりと揺れたかたまりが、そのままバタンと倒れこんだ。その拍子に、かけていた眼鏡がこちらに飛んで転がる。

「!」

 悲鳴が出そうになるのをすんでで抑える。こういうのは苦手なのだ。昏々と眠り続ける顔を覗くと、まだ若い青年のようだった。無精髭が見えた。汚い。


 そのままにしようか一瞬迷って、転がった赤フレームの眼鏡を拾い上げる。少しゆるいツルを丁寧にたたみ、どこに置いておこうかと思案していると、バタバタと階下から数人の若い男の子たちが階段を駆け上がってきた。

「よっち! 時間どう?」
「まだ余裕! つか向こうも遅れるって」
「ていうかさ~色々買ったけど、これもう向かいの漫喫でシャワーのほうが早くない? ハジ駄目じゃない?」
「つかまだ寝てるしこいつ。マジでありえねーメントスコーラしようぜ」

 デザイン系の学生だろうか、と七奈はなんとなく思った。小奇麗ではあるが、どこか個性的で統一感のない四人組が、先ほどのパーカーの青年が眠るベンチに集まる。一番背の小さな、サルエルを履いた青年が、黄色いビニール袋を片手に揺らしながら、七奈の方へ近づいてきた。はい、と手を差し出される。

「あーごめんね眼鏡。ありがとありがと。通る?」

 眼鏡を渡しながら、黙って首を振る。

「あ、便所? そこチカン多いから気をつけてね」

 ニコッと笑ってサルエルの青年がトコトコと戻る。どう反応していいのかわからないまま、七奈はくるりと向きを変え、お手洗い、のドアへ向かった。

「だーから! オレ幹事! 向こう、五人。こっちも、五人! 初合コンだよ? 失敗するわけに行かないんだってば! 向こうの幹事知り合いだし。あいつ根回し超早いから敵に回すと怖いんだって! おら、トキ達が連れてってくれるから立って! ……じゃあ俺とヤス先に店向かうから。お前ら……」

 ドアを閉める。なんだかどこかで聞いたような話だ、とは思ったが、考えないことにした。扉の向こうで、合コン成功させんぞ! という掛け声が聞こえた。多分、すでに失敗している気がする。
 ほつれてしまった髪を整え、メンソレータムのリップクリームをつける。口紅くらい買ったほうが良かったかもしれないとふと思ったが、ここまで来たら潔く数合わせの様相でいよう、と七奈は覚悟を決めた。
 とりあえずさっきのよりはマシだ。多分。
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